2018年 日々感酔
2018年12月30日
『トム・ハザードの止まらない時間』 How to Stop Time マット・ヘイグ(Matt Haig)
ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化の予定らしい。
遅老症(アナジェリア)という症状になった主人公、長命族の話である。不死者ではない。16世紀から現在までをカットバックで書いているが、嫌みな部分もなく、とても素直。
それなりに楽しめた。
しかしだ、〇は世界を救う。
その通りなのだが。
いささか疲れている。年末だからね。来週は今年のおもしろかったものの一覧だあ。
本気か?
2018年12月22日
年末になるとこのミステリーがすごい!が出てくる。もう30年も続いているのか。
文春ベスト10とか、ミステリが読みたいもまとめつつあるんだけど、未登録出版社の登録に追われて、途中で挫折中、そのうちに。
ベスト10と言っても30位くらいまで、掲載されている。正直いうと、ナンバーワンは確かにおもしろいんだろうけど、ベスト10の中間くらいの作品に愛着を感じるときが多い。
しかし、今年はミステリ読まなかったな。
『乗客ナンバー23の消失』 セバスチャン・フィツェック(Sebastian Fitzek)を読んでみたいなあと思っているのだが、いつになることやら。
眼が覚めると、自分の死体が浮いてて、いつのまにかクローンにされている自分がいる。
乗員は6名、数千名の冷凍睡眠者がいる。AIは調子が狂い、航路をはずれつつある。死体は全部で五つ、ひとり意識不明、全員がクローンになっていて記憶が抜け落ちている。
というオープニングの『六つの航跡』 ムア・ラファティ(Mur Lafferty)。
少し甘いかなと思うところもあるけども、楽しめた。
『動乱星系』 アン・レッキー(Ann Leckie)、この作家の作品が苦手。
思うに、SFを書こうとしているのかいないのか、よくわからない。
も一度読み返そうとしているんだけど、どうなのかなあ。
『巨神覚醒』 シルヴァン・ヌーヴェル(Sylvain Neuvel)は、第二部、第一部はなんだかなあであったが第二部はわりとおもしろい。
13体も出てくるんだけど、どうまとめていくのだろうと、興味深い。
2018年12月16日
今年はじめに出た『世界の終わりの天文台』 Good Morning, Midnight リリー・ブルックス=ダルトン(Lily Brooks-Dalton)を読む。
創元海外SF叢書もこのあとも続くのかなと心配ではあるけれど。
北極圏に生き残った老人と女の子、木星探査ロケットの物語がカットバックで綴られている。大まかにいうと破滅テーマの一篇。けど大きなアクションシーンはなく、静謐な雰囲気で物語が進んでいく。
謎は謎としたまま、登場人物たちの過去が錯綜していく。
なかなか良い雰囲気で、読んでいるときに、これに似た感触のSFがあったけど、なんだっけと考えていた。
ふと、思い当たったのが、『オブザーバーの鏡』 A Mirror for Observers エドガー・パングボーン(Edgar Pangborn)
題名の『世界の終わりの…』というフレーズにも惹かれる。
連想されたのが、『旅の終わりの音楽』 Salme ved reisens slutt エリック・フォスネス・ハンセン(Erik Fosnes Hansen)、沈んでいくタイタニックの船上で最後まで曲を奏でていた楽団員の物語である。カバーのイラストがすごく良い。
終わりは常に哀しいとは限らないけれど、一抹の寂しさを感じるものだ。今年も、そろそろ終わる。
2018年12月9日
『幸せの黄色いハンカチ』という映画がある。ピート・ハミルの「帰郷」という翻訳されてもたった3ページくらいにしかならない作品が原案である。
原作は長かったり難しかったりすると映画にしたとき、膨らましようがないのだが、ここまで単純だといかようにでも料理できる。クライマックスは決まっているのでね。とはいうものの映画は名作である。
ピート・ハミル(Pete Hamill)の『ニューヨーク・スケッチブック』に収録されている。
発表されたのは雑誌は『ニューヨーカー』、The New Yorker、1925年(大正14年)創刊の都会派と言われた雑誌。ちょっとした男と女の哀歓や人生の複雑さを、さらりとした短編に集約されて、毎週、そんな短編が収録されていたそうだ。
膨大な作品数で、傑作選の形で、日本では、以下の本にまとめられている。
『ニューヨーカー短篇集』、『ベスト・ストーリーズ The Best Stories』 editor:若島正(Wakashima Tadashi)
これ以外にも単独の短編集がかなりの数ある。
素敵な短編がいっぱいである。
「夏服を着た女たち」 The Girls in Their Summer Dresses アーウィン・ショウ(Irwin Shaw)、「河を渡って木立をぬけて」 Over the River and Through the Wood ジョン・オハラ(John O'Hara)、「ツグミの巣ごもり」 The Catbird Seat ジェームズ・サーバー(James Thurber)、「不変の理論」 Inflexible Logic ラッセル・マロニー(Russell Malony)、「おやじ」 My Da フランク・オコナー(Frank O'Connor)等々。
「ツグミの巣ごもり」と「おやじ」の衝撃は忘れられない。
ここには、読んだ本だけ書くことにしていたけど、今回だけ掟破りを。
『巨大なラジオ/泳ぐひと』ジョン・チーヴァー(John Cheever)、新潮社より短編集が出た。うれしい。
「非常識なラジオ」、この短編集では「巨大なラジオ」と改訳されて巻頭に収録されている。やはり何度読んでも、胸にずきんとくるショックは凄い。
こんな短編を読めるのはうれしい。
訳者は村上春樹、協力は柴田元幸というふたりであるが、『いなごの日/クール・ミリオン -ナサニエル・ウエスト傑作選』 ナサニエル・ウェスト(Nathanael West)で、昨年、短編集を出したけど、その際には文庫であった。流石に村上春樹・柴田元幸の両名の名でも売れ行きは厳しかったのか、今回は単行本。
『いなごの日』はたまたま映画を見ていたので、読んでみたいと思っていた、作家的な知名度はほとんどない。
今回のジョン・チーヴァーも知名度はない。でも読んでほしい、単行本、二段組みでちっこい字がいっぱい。でも読むに報いてくれる作品集である。
こういう作家をまとめてくれる村上春樹と柴田元幸の存在感は大きい。
願わくば、売れてね。
2018年12月2日
椎茸、英語でもフランス語でも「siitake」なんだそうだ。好き嫌いの分かれる食べ物でもあり、食感を嫌う場合が多いので訓練で克服することは難しいらしい。
広葉樹の木に生えるのだが、かっては高価な食材であった。そのため九州地方では、ほだ木を置いて、自然に椎茸菌がつくのを待ち、収穫をしていたらしい。ゼロか百かのばくち的栽培で、成功すれば大金持ち、失敗すれば一文無しの事業であった。
現在は栽培で安定供給されている。椎茸として売られることが多いけど六丸、冬菇(どんこ)とか種類がある。わたしは好きですけどね。
かなり前、バイオテクノロジーという言葉もあまり知られてない頃、ある製菓会社でその仕事があると聞き、行ったら、椎茸菌のほだ木に埋め込む方法の話だった。
当時、これもバイオテクノロジーなんだと思った記憶がある。
冬の鍋物には欠かせませんね。
菌類の話である。茸だ、茸といえば、『マタンゴ』である。昭和38年に『ハワイの若大将』と同時上映された。
加山雄三の若大将シリーズである。当然、映画館では見ていない、テレビの再放送だ。子供の時に見て忘れられない印象の映画のひとつになった。おどろおどろしい雰囲気で、茸の怪物マタンゴが襲ってくるイメージは鮮烈であった。
当時の映画は同時上映は多かったけど、これほど違和感のある同時上映も珍しかったのではないかと思う、調べてないけど。
原作は、『夜の声』 The Voice In the Night and Other Stories ウィリアム・ホープ・ホジスン(William Hope Hodgson)
好きな作家のひとりでナイトランド叢書の作品も購入してあるのだけど、まだ読んでない。時間ができたらと思っている。
茸に関わるSFと言えば、『地球の長い午後』 Hothouse ブライアン・W・オールディス(Brian W. Aldiss)である。
静止した地球と月にかかるツナワタリのイメージが鮮烈だが、これは立派な茸SFだと思う。
『天才感染症』 デイヴィッド・ウォルトン(David Walton)、これも茸SFであるが、茸に寄生されて、違うものになりつつあるのだがというアクションもの。
もうちっとおもしろくなりそうな要素は残念ながら見受けられない。
なんかハリウッドSFを見てるみたいで、あることが突破口になるのは常套手段のように思う。
2018年11月24日
竜、もしくは龍というと、蛇を巨大化し、申し訳程度の三本の指を持つ手と足をつけ、巨大な顔に毛むくじゃらのひげ、何を食べているのかわからないけど口いっぱいの牙、2本ほど伸びている触覚。
神か、もしくは邪神か、祈りをささげられるか、または退治される存在か、そこには人間とは別個の怖れられる存在であった。
しかし、海外のドラゴンというと、コモドドラゴンを巨大化し、蝙蝠の如き羽根をつけ、そんな羽根ではとても飛べないだろうと思えるずんぐりむっくりなボディー。
あろうことか、知性もあり、人間とコミュニケーションもとってしまう。
怖れる存在ではなくて、征服するか、もしくはパートナーとなるかというふうに描写されることが多い。
最初に竜を意識させられた作品は『竜の戦士』 Dragonflight アン・マキャフリイ(Anne McCaffrey)
竜の戦士、パーンに間隔をおいてやってくる糸胞と戦うために人類と竜はともに宇宙間隙を飛び越え戦う。
アクションそのものにおもしろさがあるのではなくて、ドラゴンと人間の触れ合いの物語だ。
『図書館のドラゴン』 In Between Dragons マイクル・カンデル(Michael Kandel)、『ドラゴンになった青年』 The Dragon and the George ゴードン・R・ディクスン(Gordon R. Dickson)などおもしろいものはいっぱいある。
そんなドラゴンものでも、印象深いひとつが、『竜のグリオールに絵を描いた男』 The Dragon Griaule ルーシャス・シェパード(Lucius Shepard)である。
もう30年になるのか、雑誌掲載時一読、その魅力に取りつかれて、今回、改めて読み返したけど、やはり良い。今回、初訳の「嘘つきの館」がいい。
異種婚姻譚の話だが、残りの3編も読みたくなった。
短編集の『ジャガーハンター』に収録されている短編はすべて良いので、再刊してほしい。『緑の瞳』は、ウイルスに感染したゾンビものであるのだが、失敗作とは言われているけど、ひたすら内省に落ち込んでいく様など、『内死』 Dying Inside ロバート・シルヴァーバーグ(Robert Silverberg)のようであり、それなりに楽しんでいた。
問題は『戦時生活』である。思い出せないのだ。中身が。
短編で読んで、本も読んでいる。う~む。まったく思い出せない。
魔法使いがほんの少し呪文を手控えたために死に損ない動けなくなった竜のグリオールを殺すための方法を、ひとりの男が提案する。
その身体に、毒のある絵具で絵を描こうと。巨大なグリオールは死に損なったためにじんわりと成長を続けている。しかも周囲に毒気をばらまいているのだ。
傑作です。
2018年11月09日
紀元前から紀元後の時代、神の子が降臨する。場所はエルサレム、ローマ帝国ティベリウス皇帝治下、属州総督ピラト、ユダヤ教徒、そして使徒たち。
ゴルゴダの丘に立つ十字架に向かって、収斂していく。
『イエス・キリストは実在したのか?』 レザー・アスラン(Reza Aslan)
題名はクエスチョンマーク付きだが、内容は実在を否定するのではなくて、数々の奇跡と使徒たちの行動の検証になっている。
個人的に、キリスト教とは縁が少なく、子供のころ、クリスマスに教会に行くとなんかもらえた?、たぶんもらえたように思う、程度のことしかなかった。
意識したのは、1973年『ジーザス・クライスト・スーパースター』である。ロック・オペラといわれたミュージカルである。
インパクトはすさまじく、個人的にはナンバーワン映画なのである。
これの影響で、翻訳ものを読むようになったように思う。
キリスト教を無視しては翻訳ものは読めず、いや、ある程度の宗教知識がないとなかなか読み解くのに苦労する場合もある。
ミステリにそうしたことが多いように思う。
そんなこともあって、キリスト教をよく知ろうと思って、興味の湧くノンフィクションはたまに読む。
この本を読んだのは題名に惹かれてではなくて、たまたま塩野七生の『ローマ人の物語』を読んでていて、ユダヤ属州の部分になったので、タイムリーに文庫化されたので読んだ。
読んでから、しばらく経っている。キリスト教が世界的な宗教になる過程において使徒たちの行動が重要なキイになる。
なぜ、そこまでの行動を起こしたのか、そしてなぜ、伝播されたのか。
とてもとても興味を惹かれることばかりだ。
2018年11月09日
当日連絡の当日休みというのは、いかがなものかと思ってしまう。
多少、やんちゃであろうが、ギャーギャーうるさくても、年がら年中文句を言っていても、細かくてもかまわない、「休まないでね」である。
社会人としての最低のマナーは何かというと、決められた休みは守るということである。
そりゃ体調悪いときもあるし、病気の時もある、だけど、なんかよくわからない理由で当日連絡、当日休みを繰り返されると信頼感が欠け落ちていく。
仕事ができるとか、できないとかは、本人の能力の問題もあるので、しかたないのだが、大体、仕事なんて繰り返していくうちに覚えるものだし、考えなさすぎな方も考えるように変化していくものだと思う。
しかしだ、根底にあるのは、可能な限りの出勤意欲だ。
根底にあるオペレーティングシステムは、働く意欲であり、そこにアプリケーション、業務遂行能力が載って稼働する。
つまり、オペレーティングシステムに問題あるのは大変なことであり、世界的な寡占状況はありえないと思っているのだが、もはやここまでくると、この世界を俺の世界だという世界征服の魔王とどこが違うんだと思ってしまう。
「魔王様、ここに不具合があるのですが、」「下々の愚か者たちめが、そんなものはおまえたちがうまく使えばいいのじゃ~」
話がずれた。と、いうことで休むなとは言っておりませんので誤解なきよう。
『折りたたみ北京 -現代中国SFアンソロジー』 editor:ケン・リュウ(Ken Liu)を読む、細かいチェックをしてなくて、すいません。
女性作家が多いなと思える。
「鼠年」は嫌い、なんというか、背中をなにやら虫が這いまわるような感触が続くのである、おもしろいんだけど、この生理的な不快感がなんともあなどれないのである。傑作なんだろうけどさ、嫌だ。
「折りたたみ北京」と「円」が秀逸、中国という国家自体に対しての好印象はないのだが、なにやら体制批判的な作風をすべての作品に感じてしまう部分もなくもない。
中国の作家、残雪(ツァンシュエ)を読んだときに、生理的なざわざわ感は何なのだろうと思ったのだが、今回の作品群にもそんな感じを受けた。
言葉にしづらい違和感である。文化大革命によって一度、すべての文化が壊されて、再構築過程にある壮大な人類的実験場的な想いがある。その新たな土壌から新しい才能が出始めたのでしょう。
2018年11月04日
退位後、読書を楽しみたいという美智子皇后さま、「ジーヴスも二、三冊待機しています」とのお言葉。
あ、びっくり、けどよく考えてみると無難な選択なのかもしれない、P・G・ウッドハウス(P. G. Wodehouse)、ユーモアと英国風のペーソスを交えた娯楽小説。
戦前から訳されていて、調べようとすると出てくる、出てくるびっくりの物量、少しは読んでおかないとと思って文春文庫版で読んでいたけど、内容は記憶にない。
出版社、この場合国書刊行会だけど、年間100冊くらいしか売れないと思わず、本音の言葉、外国文学愛読者(がいぶんよみ)は、日本で3000人とも言われているようだ。
と、すると年間100冊も売れるのかと驚いた。冗談ではなく知名度は日本では低く、こんなことでもないと売れるわけもないと思う。
こういう作家を翻訳し、出版するのは得難い労苦であるし、そしてそれをまた紹介するというのは、実に、実に、喜ばしいことである。
とは、言うものの、少し調査し内容を精査してみるか。
美智子さまの大学の卒論はジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy)であった。
さすがに英国との親しき交流、荒々しいアメリカ小説に比べれば、英国の小説は、どことなく高貴な香り、そんな作品を集めたのが、『英国短篇小説の愉しみ』 editor:西崎憲(Nishizaki Ken)
ヴィクトリア朝というと切り裂きジャックにフランケンシュタインというおどろおどろしいイメージがつきまとうのである。個人的にそんなイメージがある。
そんな作品を集めたのがこちら、『ヴィクトリア朝妖精物語』 editor:風間賢二(Kazama Kenji)や、『ヴィクトリア朝空想科学小説』 editor:風間賢二(Kazama Kenji)があります。
けど、翻訳ものを読まれるのだろうか、もしかしたら原書なんじゃないのと思うところもあるのだが…
2018年10月28日
金曜日の朝、目が覚めると喉が痛い、激痛である。大酒を飲んだとか、大声で歌を歌ったとか、ないので、原因はわからない。
年一二回、体調が落ちて、発熱するが、もっぱら扁桃腺である。子供のころに取ろうかという話もあったが、そのままで来てる。
たまたま休日だったので、出勤だったら会社へ行けない状態であった。きのうになって、少しは良かろうと思ったが、肌のぴりぷり感は消えず、だるさはひどく、薬をもらった。
隣は病院なので、すぐ行けるが、いつもの担当医がお休みなので、別の方に診ていただいた。
糖尿の数値はよくなっているし、それでも体重がまた少し増加気味、食ってるからね、高血圧は数値が下がり、安定。
担当医じゃないひとに診てもらうと、ぶちぶち言われるのだけど、今回は、喉の痛みと発熱、37.4度、平熱が36.6度でほとんど変わらないので、少し上がっただけで、ひどくしんどくなる。
平熱が低いひとは37度台で高熱になる。これも個人差なんだろうなと思う。
今日は良くなった、風邪ではなく、喉の炎症だった。
ここのところ、無理してるなと自分でも感じていたので、年齢も年齢だし、無理はできないみたい。よく寝ているんだけどなあ。
『七人のイヴ』 Seveneves ニール・スティーヴンスン(Neal Stephenson)を読む。
翻訳された時から読み続けていた作家だけど、わかりにくい作家だよねとも思っていた。SFという設定を受けて社会や政治を書きたいひとだったんだと、思う。
『ダイヤモンド・エイジ』や『クリプトノミコン』を読んでて、なんかもやもやしたものをずっと感じていたが、この大作でよくわかった。
月が七つに壊れ、その破片が地球に降り注ぐハード・レイン、人々は生き残れるかというサバイバルものかと思いきや、三巻めでは、いきなり5000年後になる。
そもそも5000年も体制が維持できるのかという疑問もあるが、死と再生の物語。破滅テーマの一冊である。
破滅テーマは本当に悲惨な未来になるか、明るい未来になるかの二通りしかないが、微妙にしろ、再び人類は新しい一歩を示すということであろう。
こんなにこの作家わかりやすかったっけと改めて思ってしまった。たんに前の作品群をいい加減に読んでいたということかな。
2018年10月21日
永遠に生きるひとになりたい
誰もがそう願うようだ。また、そうなってほしいと願うひとも多い。
しかし、相当にしんどいような気もするのだが。数千年なら、まだいいけど、数百万年、数億年となると、その孤独感は筆舌に尽くしがたいと思う。
どんなことであれ、ほどほどが良いように思う。
不死のひとを書くのは、肉体的な不死なのか、精神的な不死なのか。
肉体再生というのもある、超能力ものでは定番だけど、ある条件のもとでないという制約も付く場合も多い。そうでないとお話にならない。
今回、『接触』 クレア・ノース(Claire North)を読む。原題はTouch、原題のままの方がいいのだけど、有名なマンガと同じになってしまう。
ある環境で、あまりなりたくない環境で、他人にもぐりこめることのできる能力を身に着けたひとの物語だ。
一種の不死人であり、ひとからひとへと乗り移って生きながらえる。乗り移られたひとは、その間、記憶を無くす。
今回はサスペンスで逃亡劇、『ハリー・オーガスト、15回目の人生』 クレア・ノース(Claire North)も、再生の物語であり、不死の物語でもある。
おもしろいが、少し長すぎるように思う。
映画化はしにくい題材だよね。
2018年10月14日
『かかわると面倒くさいひと』榎本博明 日経プレミアシリーズを読む。
日本経済新聞社の本は、少し高い。
現在は日本経済新聞社(Nihon Keizai ShimbunSha)ではなく、日本経済新聞出版社(Nikkei Publishing)になっている。
それ以外に日経BP社(Nikkei BP Sha)には、日経ナショナルジオグラフィック(Nikkei National Geographic)もある。
新聞社の出版局が、独立するのは珍しい例とも言える。
誇りがあるんだろうなあと思うが、必ずしもそんなものばかりではないとは思うのだが。
かかわると面倒くさいひとはどこにでもいる、できるならば、自分とは関わってほしくないのだが、残念ながら、必ずいるんだよね、こんなひとが。
いくつかのパターン分析に終始しており、特に目新しいものはないのだけど、ついこんな書名だと読んでみたくなるんだよね。
人間は複雑怪奇なので、どのパターンに当てはまるのではなくて、どのパターンも多少なりとも抱えながら、あるパターンの行動をとりやすくなるということだと思うだよーん。
10タイプに分別してるけど、大まかに分けると、自己陶酔タイプ、他者依存タイプのようなものだと思う。
経験から感じると、自分が大雑把なせいか、融通が利かないタイプがもっとも苦手。
「どうでもいい手続きにこだわり、融通が利かない」「思い込みが激しく、小さなことで大騒ぎをする」というひとが嫌い。
いや、わたしが言っているのではなくて、本に書いてあるのです。
自分的には「独りよがりの正義感を振りかざす」とか「遠慮深く振る舞うが、内心、忖度を期待している」、うう、心が痛い。
「面倒なひとはなぜ面倒なのか」、面倒だから面倒なんでしょ、と個人的な心理的な面にスポットライトを当てた著作は、それなりにおもしろいのだが、なぜそうなったか、なぜそのようになるのか、までに行きつくことは少ない。
ことわざにあるように「蛙の子は蛙」といいながら「氏(うじ)より育ち」と言ってみたり、環境要因は大きいと思う。
それこそ千差万別、十人十色なので、個別の検証をすれば、膨大な量になる。
だからこそ、大きな流れ、もしくは一般的にある流れを表現せざるを得ないんだろうなと思う。
売れているようで、書店のポップアップで見て、ふーんと思いながら、つい読んでしまう。
ばかだなあ、と思いながらも、やっぱ好きなんだよね、自分は違うんだあ!と再確認させてくれる本を探してしまうのであった。
これを、「自己再発見好きなわたし」と名付けよう。
「君たちとは違うんだよ、ひれ伏したまえ、庶民どもよ、わはははははははは、わたしは君たち庶民のこともよく知っているんだ、ただ君たちとは、ほんの少し差があるんだよ、わはははははは」
は、わたしはばか。
2018年10月6日
『HARMの法則』、人間はどうやら『~の法則』と付けるのが大好きなようである。
物理法則やら、大体が科学的なのだが、経験則はあやしいし、『イヤボーンの法則』のような『ボーイ・ミーツ・ガール』的なものもある。
『イヤボーンの法則』って何かって聞くんですか、ええ、『イヤボーンの法則』とは、ヒロインの女の子が悪い奴に襲われて「いやー!」と叫ぶと、主人公に眠っていた能力が突然、目覚めて、悪い奴をやっつけてしまうというパターンを指します。
『HARMの法則』は、
H →Health 健康
A →Ambition 願望
R →Relation 関係(人間、社会)
M →Money 金銭
の四つのことであり、人間の悩みのほとんどはこの四つに集約されているとのことである。
健康で、願望も充足されて、円滑なコミュニケーションを取れて、十分な金銭もあるという方には関係のない話でございます。
なんらかの身体的なコンプレックスを抱え、挫折することばかりで、周りの視線を痛く感じて、財布が宙を舞うようなお話でございます。
どれかひとつでも満たされればいいのだけど、そういうわけにもまいりません。
アフィリエイターが、成功報酬タイプの広告を打つとき、この『HARMの法則』を参考にしているらしい。
あえていうと、健康食品もしくは美容関係、勉強、資格、悩み相談や占い、金融商品である。紹介し、ネットで買ってくくれば報酬が入る。
そこまでして、報酬を上げたいか!と問えば、やはり上げたいよね。
問題は、そこから一歩、グレーゾーン、もしくはブラックな部分に踏み込んでしまうことである。
詐欺まがいな手法や、でたらめなことを書いて売り上げをあげるのは間違いである。
サイトは店と同じで、長く地道に活動していかないとひとは来ない。こんな時代だからこそ信用が大事と思うのだが。
2018年9月30日
ネット上の広告について、よくご存じの方は微笑んでいてください。
広告を掲示して、それによって利益を得る。これが基本だけど、広告を見てもらえるだけでお金が貰えるタイプと、なんらかのリアクションがないと貰えないタイプがある。
見てもらうだけでも報酬のあるタイプをAタイプ、リアクションがないと報酬がないタイプをBタイプとしよう。
Aタイプは、ブログもしくはサイトの審査があり、これに合格しないと広告が掲載できない。これが厳しい。
合格するためには、1、内容がない、もしくは薄いものはだめ。2、アダルト関係を含む描写や掲載物はだめ、ポリシーに準じていないと許さない。
特に2のポリシー違反が厳しい、何度か警告を受けた身からすると、「なんでこれでポリシー違反なんだよ」と言わざるを得ない。
警告を受けると、実績が下がる。ゼロになるわけではないけど、下がる。
ブログ、場所を借りているブログ等では問題になるはずもないのだけど、業者によりけりだけど、実績はサイトの構築の完成度が影響しているようだ。
構文エラーの存在、リンクの欠損などがあると実績が下がる。構築してるサイトだと、うっかりというのが多いので、妙な下がり方だなと思ったら、サイトの完成度を疑った方がいい。
実際、地味なこのサイトでも上位5%に食い込む売り上げをあげるのは至難の業である。
ユーチューバーとか、画像でもこのAタイプを使っていることが多く、何百万にもなるなんて、ありえないほど厳しいものである。いや何万円か。
数は力である。基本、訪問者数とクリック数である。
閲覧されただけでの報酬は、非常に薄い。仕方のないことではあるけれど、薄いけど確実に入ってくるのがありがたい。どのくらい薄いのかって、千円の一万分の一くらいかな。
審査に合格し、最初の一か月くらいは、ご祝儀相場になっているような気がする。Aタイプ側も商売は商売なのだろう。
それとAタイプは、よく報酬のアップが見込まれますという提案をしてくる。自分のところに合っているかとじっくりと検討した方が無難だ。鵜呑みにしないことが、大事である。
Bタイプだけど、だいぶ前に試しているのだけど、リアクションタイプの広告で、クリックされてなんらかの成果が発生しないと報酬が発生しない。
商品紹介、商品評価をしないと、おいそれとクリックはしてくれない。
これはこれで難しいところがある。紹介をして、うまく誘導していかないければならないからだ。
とりあえず、ブログは作った、ついでに報酬も得たいな程度では、長続きはしないし、途中、報酬が減少しても続けられる別な動機、モチベーションを持っているかにかかっている。
ネットで報酬という甘い幻想はなく、過酷な競争と日々の努力と積み重ねが必要である。
最近、感じているのだけど、実際、非常に厳しいんじゃねえ。下手撃ちゃ、叩かれるし謝罪もしなければならなし、見捨てられたら何千億もあるらしいサイトの下層に落ち込む。
これほど格差の激しい世界はない、だからこそチャレンジのしがいもあるのかもしれない。新規参入のなくなった世界は衰退するしかないしね。
と、思われる。
2018年9月23日
『週刊文春』と『週刊新潮』では『週刊新潮』の方がおもしろく読める。
記事ではないよ、書評欄だよ、書評欄、執筆陣もそれほど変わりはないのだが、どういうわけか新潮の方が気に入っている。
え、なぜそんなものを読んでいるのかって、わたしではなく、うちのかあちゃんが買ってくるのだ。読むか読まぬかと思ってはいるのだが、あれば読むよね。
隅から隅まで読めば、半日はつぶれます。そこまでして読みたいとは思わないが、パラパラと気になるものだけ読む。うーむ、俗っぽいのだが、気になるものはある。
今回は『週刊文春』の書評欄を取り上げよう。
「文春図書館」と銘打たれている中で「文庫本を狙え!」というコーナーがある。9月20日号では、坪内祐三氏が記事を書いている。同年代だけど、信頼できる書評家のひとりでもある。
今回は『火の鳥6 望郷編』、たまたま二週間ほど前、電子ブックでいろいろ読み返してはいるのだが、『火の鳥』もそのひとつだった。おお、と思っただけなんだけど。
その中で引用すると「近代文学研究の基本は書誌学すなわちテキストクリティックにある(これが出来ていない専門家は多いが)。」引用終わり
テキストクリティックとは、つまり、内容の異動をチェックする。
こんなリストを作っていて思うんですが、完全にできるひとはいないよねと思う。坪内氏はたぶん、やらないひとが多すぎるので、少しは調べろということでしょう。
例えば、ヘンルィク・シェンキェーヴィチ(Henryk Sienkiewicz)の『クオ・バディス』という作品をこまめに追っかけると、どれだけの時間がかかるやら。
皇帝ネロのキリスト教徒迫害の物語であるが、戦前から訳されているので、これを追っかけるのかと思うと気が遠くなる。
それが書誌学なのだ。プロの方々の仕事には頭が下がります。
大岡昇平氏と手塚治虫氏をあげて、その難しさを語っている。
『鉄腕アトム』は雑誌掲載時と本になったとき、それが完全版になったとき、さらに新版での手の入れ方が激しいと読んだことがある。
作家には、書きっぱなしのひとと、加筆修正を頻繁に行うひとに分かれる。書きっぱなしはそれはそれでわかりやすいが、新版が出るたびに加筆するひとは追っかけるのが大変である。
殺人的な忙しさのなかでも、こまめに修正した手塚治虫、知力はすさまじい。氏の作品のあまり良い読者ではなかったが、少しずつ読み返そうかなと思う。
2018年9月17日
大雨、台風、地震、被災された方へ心よりお見舞い申し上げます。
穏やかな日々が早く訪れますよう心より願っています。
『メアリーの総て』という映画が12月に公開されるそうだ。
『フランケンシュタイン』 メアリー・シェリー(Mary Shelley)の原作者の物語である。
『解放されたフランケンシュタイン』 Frankenstein Unbound ブライアン・W・オールディス(Brian W. Aldiss)は読んで、非常に興味を持った作家である。
未だに調べてみたい作家でもある。
今回、公開される映画、期待してます。
(Mary Wollstonecraft Shelley)、結婚前の名:(Mary Wollstonecraft Godwin)、1797年8月30日、ロンドン生まれ。父親は、ウイリアム・ゴドウィン(William Godwin)
フェミニズム先駆者でもあった母親のメアリ・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft)、出産後に死亡。
父親はその後、再婚する。
16歳のとき、21歳のロマン派詩人、パーシー・シェリーと駆け落ちをする。パーシー・シェリーは妻子がいた。
1816年、スイスで詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron)の薦めで、『フランケンシュタイン』を書き始める。
1816年秋、異父姉が服毒自殺。パーシー・シェリーの妻が投身自殺をする。
その後に、メアリーとシェリーは正式に結婚するが、1822年、パーシー・シェリーが水死する。
『フランケンシュタイン』は版を重ねながら、出版され、1851年2月1日死去する。享年54歳、その時代のうねりの中で、18歳で『フランケンシュタイン』を書いた、その心はいかばかりであったろうか。
2018年9月11日
『ローマ人の物語』にはまっている。
いまは『悪名高き皇帝たち』である。ここにはカリグラとネロがいる。
塩野七生さんの著作は歴史書ではなく、古代ローマ帝国の読み物である。歴史的な検証作業はしているけども、主観がかなり入っている。
そこらへんは鵜呑みにせず、冷静な読者でありたいと思う。
皇帝カリグラと皇帝ネロ、両者とも、かたや部下に殺され、かたや自死に至った皇帝である。カリグラは、経理を無視しての無駄遣いが多すぎて、義憤に満ちた兵士に殺された。
その使い方も、己の趣味を活かそうとしたに過ぎないと言ってしまうとまずいかもしれない。
「あなた、こんなとこに金使っている場合じゃないでしょ」という嘆きが聞こえてくる。
確かにそうだ、世の中には吝嗇家とミエのために金を使うバカのふたつしかいない。
バランスの取れた奴なんか、この世にはいないものだと思う。しかし、居るんだよね、ローマの皇帝には。
そうした素晴らしい皇帝には誰もなりえないようにも思うが、存在してしまうのだから、個人的には困ったもんだと思う。
なぜか、といえばそんな聖人君子にはなれません!
さて、皇帝ネロだが、キリスト教徒弾圧で悪名を馳せ、どんな書物でも悪く言われるが、単純に言うと、道楽が過ぎた。
やりたいようにやれる立場になっていたので、そこは抑えねばならないのにやってしまったということだと思う。
若いからね。でも、ひとの上に立つ以上、それでは済まないのですね。
上に立つことは難しい。
なぜ、ひとの上に立ちたがるのかもよくわからない。
権力には責任が伴い、常に自省と自負を行ったり来たりしている。
超越したところに立てば、「そんなもんか」と言えるんだろうな。
そうねえ、そう言ってみたい。常に現場に立つ心を理解できますように。
2018年9月5日
さくらももこさんが亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。
昭和を書く作家がまた少なくなっていく。
昭和に愛着を持つわけではないが、ノスタルジーと言い切ってしまっていいのかはわからない。
でもね、チクロやサッカリンで育った世代であるし、壮大な添加物の塊で育った世代であるし、なんらかの身体的な変異を抱えていてもしかたがないのかもしれない。
つくづく感じるのは大正世代、昭和初期世代は素晴らしい生命力を持っていると思う。
1950年代生まれ以降はどうなのだろうかと思う。
はっきり言って、長生きできるのかなと思う。
個人差があるのは確かだけど、長命族というと、ハインラインを思い出す。
長命族のラザルス・ロングの一代記を彷彿とさせる。
まだ5年後はおそらく日曜6時代は「ちびまるこ子ちゃん」と「サザエさん」が続いていると思われる。
少なくとも、自分は見てるんだろうなあ。
2018年8月30日
角川文庫創刊70周年
なんだ、そうだ、復刊リクエストをしているけれど、今はエンターテイメントの復刊投票、みんなで選ぶ復刊ということで、なんでもありではないんだよね。
今は、日本のエンタテイメント、当然、ピックアップされた作品しかできないのだけど、今回見てみると、赤江漠『オイディプスの刃』、小林信彦の『オヨヨ』シリーズとか沼正三『家畜人ヤプー』、山田風太郎の諸作品などが気にかかる。
赤江漠は好きな作家で、京都を舞台にしたミステリーが多く、一時期、なんでもかんでもよく読んでいた。耽美的と表現できるような作風が素敵である。
この作家の作品は、少しだけ甘辛いものを思い起こさせる。
『家畜人ヤプー』は絶望の未来の日本人を書かれた作品、なんというか、団鬼六よりも扇情的である。いま新しい装丁で出るとしたら、そのデザインは誰になるのだろうと思う。
山田風太郎は、まとめて読もうと思いつつもいまだにできていなひとり、角川映画『魔界転生』が印象深いが、本来は様々な時代の娯楽小説である。
角川文庫というと、赤川次郎とか片岡義男のイメージが強い。しかし復刊候補にはあがっていないか、数が少ない。
平井和正の『幻魔大戦』も強烈だったが、生頼範義の装丁で復刊してほしいな。お二人とも鬼籍にはいって数年たってしまっている。
翻訳ものに埋没してたが、少しは和ものも読んでみたいな。
2018年8月24日
100回の記念大会は大阪桐蔭で決まった。一試合少なければ、東北に優勝旗だったのになと思う。
9人野球を貫いたというが、ある程度までいくと、そのレベルに対応できるのが9人だったんだろうなと思う。
惜しい、ひとりの超高校級の投手、高校野球は投手次第と思っているので、その選手に引っ張られて、全体的な底上げがされているんだなと思える。
また球数問題とか出てくる可能性はあるけど、複数投手でそれなりな選手を揃えるのは資本力がないとできない。
なんか、プロ野球の三軍、3Aみたいにはなってほしくないなと思う。
野球人口も減っているらしい。人生80年であるにしても、若いひとたちのチャレンジは失ってほしくない。
大人たちの責任でもあるだろうし、それからの人生をどう生きていくのかも課題だと思う。
負けを知ってるひとと勝つことしか知らないひとでは、どちらが強いかと言えば、負けを知っている方が強い。
天地人という言葉はあるが、すべての条件が揃うことはない。天の時、人の和、地の利、それが揃うとしたら、奇跡しかない。
マーフィーの法則で、「絶好のチャンスは最悪のタイミングでやってくる」というのがある。
それを、確かに掴めるかどうかが、能力なんだと思う。
閑話休題、もとに戻すという意味です。
3781校、甲子園出場校56校、トップ2である。
素晴らしい戦績だし、今年もまた楽しませていただいた。ひたすらに感謝。
ラストに、好きな本を一冊。
2018年8月21日
ニコロ・パガニーニを、はじめて聞いたのは30数年前になる。クラシックを聴きはじめたのは、映画『アマデウス』の影響が大きい、ものは試しに聞いてみようと思った。
いろいろ聴いていくうちに、また調べていくうちに、超絶技巧なるものの存在を知る。その超絶技巧のパガニーニを薄っぺらいコーティングの輸入CDで聞いてみる。凄いことは凄いが、どこが凄いのかがいまひとつわからない。
読んで感動する本とは違い、クラシックの場合、再演芸術なので、楽器の特性もある程度、理解した方が良いらしいとわかりはじめる。
良い曲は聞いただけでも良いのだけど、実際に画像を見てみると、聴いただけではない何かを感じるものなのだなと、思わされた。
そんなことを理解していたが、それから何年もたってパソコンで画像が見られるようになる。You Tubeだ。
気になっていたもろもろのテクニックを見ながら、おお、これは凄いと感心したものだ。
見なきゃわからないものいっぱいある。確かに画像で見たほうがいいし、実際に演奏を鑑賞しに行くべきなんだろうなと思う。
そのニコロ・パガニーニ、ヴァイオリンの名手であり、あまたの音楽家に影響を与え、超絶技巧を生んだ演奏家であり、リストにしてもシューベルトにしても超絶技巧をするんだと叫ばせた人物である。
『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』 浦久俊彦、新潮選書を読む。
作曲家というよりもパフォーマーである。
黒い服に長い黒髪、細見の身体にヴァイオリンと弦をぶらさげて、深々とお辞儀をしたかと思うと、その演奏は人間技をはるかに超える超絶技巧。
思わずYou Tubeで、また見てしまいました。
久々にワクワクさせる本に出会いました。またパガニーニのことが少しよくわかるようになりました。
あの頃にクラシックを聴いておいてよかったと思ったし、ま、たぶん興味がなければ素通りしてしまったとも思う。
パガニーニ ヴァイオリン協奏曲で検索していただければと思う。
19世紀という時代はやはりおもしろい。世紀の変わり目には異才が出現するものでもあるのだけどね…
2018年8月16日
少々、夏バテ気味である。酷暑かと思うと台風が来て、涼しくなったけど、また暑さがぶり返している。
ばてているのは、必ずしも暑さのせいばかりではないのだけど。先行きの見えない状況に置かれているとしんどいのが倍増する。
ローマ人の物語しか読んでいない。さすがにユリウス・カエサルが終わって、オクタヴィアヌスになると少々疲れてくる。
いろいろ考えなければならないので、余裕がないなあ。
サイトの情報はかなり更新している。2017年までのデータはなんとか更新させたいと思っている。
2018年8月11日
暑い、今後、毎年毎年暑いのかと思うと嫌になる。エアコンがなければ生きていくことさえできなくなっている。困ったものだ。
異常気象、気象をテーマにしたSFはなんだっけと思ってみると、暴風雨警報という懐かしい作品がある。気象現象をひとつの生物として見たアイデアである。
「暴風雨警報」 Storm ドナルド・A・ウォルハイム(Donald A. Wollheim)だ。
『天候改造オペレーション』 The Weathermakers ベン・ボーヴァ(Ben Bova)は、そのものずばりの作品。同じ作者の『キンズマン』は再刊してほしいんだけど。
『大暴風』 Mother of Storms ジョン・バーンズ(John Barnes)の中で日本は一年中台風に見舞われるという描写がある。
作品そのものはいまひとつ。
太平洋高気圧だのチベット高気圧だの、気候は複雑で、これに海流も加わる。海流循環が気候変動に大きな影響を与えている。
寒冷渦とか台風同士の接近で藤原効果とか、変化する状況は複雑怪奇である。
地球の冷却システムの南極と南極還流であるが、温度が上がり続け、海水温度も上がり続けると、このシステムの循環がうまくいかなくなり、一気に地球全体の温度もあがるんじゃないかとも思えるのだが。
地球自体は氷河期に移行しつつあるとも言われている。
極端な暑さ、寒さを繰り返しながら、移行するらしい。
北大西洋海流の温度異常で、一気に巨大な寒冷低気圧が発生し、氷河期が到来するというのが『デイ・アフター・トゥモロー』 The Day After Tomorrow ホイットリー・ストリーバー(Whitley Strieber)
地球を冷やしたりするのは、ジオ・エンジニアリングという技術もあるそうだ。
暑苦しいSFはいっぱいある。水星や金星や太陽を舞台にしたSFだ。しかし暑いのはやはりきつい。
そういえばサイバーパンクは冬が似合うのだが、暑苦しいのが似合うのはスチームパンクか。
『重力が衰えるとき』 When Gravity Fails ジョージ・アレック・エフィンジャー(George Alec Effinger)は、そういえばイスラム世界だったっけ。
古き良き時代かな。
2018年8月3日
映画『タイタニック』が好きである。映画の最初で、どう沈んだかをCGで見せてくれる。あとの展開がわかるようにしておきながら、驚けと言わんばかりに徹底的な検証を経て事実であろうことの画像を見せつけられる。
圧倒される凄さである。細かい検証がすごい作品を作ることもあるんだという驚きである。映画の中で今回確認してないけど、原稿のような紙が浮いているシーンがあった。
アメリカの作家ジャック・フットレルは、夫妻でヨーロッパ旅行に行っていた。その帰路に『タイタニック』に乗る。夫人は救命ボートに乗せて、本人は数編の作品をともに海に沈んだ。
そのフットレルの名作を収録した『世界短編傑作集』 Great Short Stories of Detection editor:江戸川乱歩(Edogawa Rampo)のリニューアル版である『世界推理短編傑作集』がでた。全5巻の予定であろうと思われる。
今回ポオとドイルの作品がはいった。この二編は超有名な作品である。
「盗まれた手紙」 エドガー・アラン・ポオ(Edgar Allan Poe)
「人を呪わば」 The Biter Bit ウィルキー・コリンズ(Wilkie Collins)
「安全マッチ」 The Swedish Match アントン・チェーホフ(Anton Chekhov)
「赤毛組合」 コナン・ドイル(Conan Doyle)
「レントン館盗難事件」 The Lenton Croft Robberies アーサー・モリスン(Arthur Morrison)
「医師とその妻と時計」 The Doctor, His Wife, and the Clock アンナ・カサリン・グリーン(Anna Katharine Green)
「ダブリン事件」 Dublin Mystery バロネス・オルツイ(Baroness Orczy)
「十三号独房の問題」 The Problem of Cell 13 ジャック・フットレル(Jacques Futrelle)
ユーモア味の感じられる「人を呪わば」と「安全マッチ」、これまたマッチがひもとく謎の「レントン館盗難事件」
盲目の医師と美しきその妻が導く悲劇、最後の「時計」が物悲しい「医師とその妻と時計」、隅の老人という安楽椅子ものの嚆矢、「ダブリン事件」。
そして完全脱獄を果たしてみせるというフットレルの思考機械シリーズの傑作。
改めて読んでみたけど、おもしろかった。
2018年7月28日
久々に小説を書きたくなる。
アニメ版『進撃の巨人』を見る。絵のタッチが好きでなく、物語もなんとなく見たり聞いたりしてパロディみたいなゾンビの巨人も、う~むと思われ、つい敬遠していたのだが、見る。
それなりにストーリーは、引き付ける魅力はあるが、ファンタジーという枠であっても、それはないだろうという部分がある。
リアルで細かい理由付けもされている世界なのに、巨人の質量はどこからくるのか、立体機動装置みたいなメカ系が素敵なのだが、壁はあれだけ薄くて高いと強度がでないのではないかと細かいところが気になる。壁の件はなんらかの理由付けがあるらしい。
魔法をできるだけ排しているわけだから、なんでもありではないと考えているなら、も少しなんとかならなかったのか。
おもしろい意外性のあることをしようとして、無理があるように思われる。こういう作品を見ると、わたしなら、こうするのにと思ってしまう。
創作意欲が出てくるのだが、書ける余裕がどこにもないし、売れるわけでもないのでね。
巨人と言えば、人間は巨人好きである。ギリシア神話のプロメテウスらや、日本ではダイダラボッチ、世田谷区の代田に足跡があるそうで、こうした巨人伝説は各地にある。
長らくゴヤの作品と思われていた『巨人』アセンシオ・フリアの作品らしいが好きな絵のひとつである。この作品からイメージした「丘に、町が」 In the Hills, the Cities クライヴ・バーカー(Clive Barker)、人間による肉団子状態で巨人の描写もよくある。
『ビッグⅩ』は手塚治虫の作品で、注射をうつと巨大化する。不思議なのは主題歌の歌詞にもあるが、弾丸を跳ね返す強度も得られる。
『ウルトラQ』では巨人の話がある。この「変身」の回は子供ごころに怖かった。
『ガリヴァー旅行記』 Gulliver's Travels ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)は、有名。
ジェイムズ・P・ホーガン(James P. Hogan)には、心優しき巨人が登場する。
なぜか巨人たちの星に着陸するアメリカのテレビドラマの『巨人の惑星』など、様々な作品がある。
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相撲で長野県出身の御嶽海が優勝したが、その中で雷電爲右エ門以来だというのがあった、江戸時代に身長197cmで、体重169kgの力士である。
平均身長が150cmいくかいかないかの時代に197cmは巨人である。最強の力士も納得できる。
しかし、暑いなあ。
2018年7月22日
今から49年前、1969年、現地時間7月16日、ケネディ宇宙センターよりアポロ11号が打ち上げられた。7月20日月面着陸。
日本は昭和44年7月21日の早朝でした。とても暑苦しい夜だったことを覚えています。
わたしは子供でしたが、家族がテレビを点けっぱなしだったことを覚えています。
月に着陸すると何かが起きる昔懐かしい「臨界角度」 Critical Angle A・バートラム・チャンドラー(A. Bertram Chandler)、なんとしても月へ行きたい男の物語『月を売った男』 The Man Who Sold the Moon ロバート・A・ハインライン(Robert A. Heinlein)
月世界植民地の独立戦争『月は無慈悲な夜の女王』 The Moon Is A Harsh Mistress ロバート・A・ハインライン(Robert A. Heinlein)
月で発見されたものから壮大な物語がはじまる不朽の名作『星を継ぐもの』 Inherit the Stars ジェイムズ・P・ホーガン(James P. Hogan)
アポロ計画前期のマーキュリー計画、有人宇宙船のノンフィクション『ザ・ライト・スタッフ -七人の宇宙飛行士』 The Right Stuff トム・ウルフ(Tom Wolfe)、映画も素敵な、エンディングの盛り上がりはなんとも言えない感動をいまだに与えてくれます。
『アポロ13』 Lost Moon ジェフリー・クルーガー(Jeffrey Kluger)&ジム・ラベル(Jim Lovell)が、事故の起きたアポロ13、そこからどう生還するかの物語、まさに次から次へと問題が起き、懸命に対処する姿はなによりも大事なのは希望なのかなと思います。映画も傑作。
月が突然7つに分解し地球に降り注ぐ、人類はわずかに残るがはたしてというニール・スティーヴンスン(Neal Stephenson)の『7人のイヴ』全三巻で2巻めは木曜日発売予定。
暑苦しい夜、たまには月を見上げるのもいいかも…
2018年7月17日
こんな記事があった。exite.ニュースより
ジョージ・R・R・マーティンがおススメ!『ゲーム・オブ・スローンズ』中断期間に読むべき本10選
◆マーティンオススメのファンタジー小説(『ゲーム・オブ・スローンズ』ファン必見!)
『指輪物語』 The Fellowship of the Ring J・R・R・トールキン(J. R. R. Tolkein)
『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』 Watership Down リチャード・アダムス(Richard Adams)
『永遠の王』 The Once and Future King T・H・ホワイト(T. H. White)
『光の王』 Lord of Light ロジャー・ゼラズニイ(Roger Zelazny)
『影との戦い』 A Wizard of Earthsea アーシュラ・K・ル=グイン(Ursula K. Le Guin)
◆マーティンの好きな小説(ジャンル問わず)
『指輪物語』 The Fellowship of the Ring J・R・R・トールキン(J. R. R. Tolkein)
『グレート・ギャツビー』 The Great Gatsby F・S・フィッツジェラルド(F. S. Fitzgerald)
『キャッチ=22』 Catsh-22 ジョーゼフ・ヘラー(Joseph Heller)
『二都物語』 A Tale of Two Cities チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)
『潮流の王者』 The Prince of Tides パット・コンロイ(Pat Conroy)
『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』は傑作である。ヤング・アダルト向けになっているけど、大人も十分楽しめる。
動物小説は昔から好きで、この作品を押してくれるのはうれしい。
夏休みになれば読書感想文などがあるが、課題図書を設けるのは寂しい限りだ。課題図書よりも、ネットで感動したという本を見つけて読んできなさいでいいのではないかと思う。
今や、ネットの世界だ、昔は、何を基準にすればいいのかわからなかった。いまやネットで検索すれば、いっぱい出てくる。それを選ばせてもいいのではないかと思う。
子供たちは、常に親の先を行く、つまらないことをいうよりも自主性に任せてもいいと思う。
「昔、これを読んでおもしろかったよ」と言うにとどめるべきで、押し付けてはいけないと思う。選択の多さが自由のひとつだから。
と、いいながら、『シートン動物記』 アーネスト・シートン(Ernest Seton)は、個人的にお薦め。
「狼王ロボ」、「灰色グマの一生」などが有名だけど、小品の「サンドヒル雄ジカの足あと」、「銀ギツネ物語」、「アルノウ」、「裏町の野良ネコ」、「カラスの王銀の星」とか、鳩とか猫とかカラスとかの短い作品が印象深い。
観察眼と他者に対する眼を養うには最適と思う。
とは、いうもののあまり選ばず、なんでも経験させるのが良しとしよう。
子育て以上に難しいものはない。
しかし、この本がというのがある。気になる。
2018年7月11日
被災された方々、不安や身体への負担は相当なものでしょう。悲惨過ぎます。一日も早く平穏な日々に戻られるよう心からお祈りいたします。
大変な一週間であった。
芥川賞候補作の『美しい顔』、盗作疑惑が出ている。盗作問題は過去、様々な作品で起きている。盗作と引用は微妙な問題なのかもしれないが、文学作品で引用はないだろうと思う。
個人的に思う最大点の問題は、作者が「現地に行っていない」という点だ。
仮にも文学作品を書こうという繊細なものを要求される感性を持ち合わせていなければいけないのに、「3・11」という微妙なテーマを表現するのに、この無神経さはないだろう。
もっとも、そんな無神経さがあるから、引用してしまうんだろうなと思う。
微妙な問題を、金を払わせて読んでもらうのならば、リサーチは最低限のマナーだと思う。
現地へ行き、現地の風、肌で感じる思い、そういうものを体感することが、とても大事だと思える。
古い考え方なのかもしれないけど、体験して、それを自分なりに整理するするために文献を探る。
文献を探り、体験もせず、他人に表現する、わたしは許せない、それは頭で構築したものだからだ。根本的な考え方に問題があるとしか思えない。
「本の雑誌」七月号は「巨魁・西村寿行伝説!」だった。大変な作家である。ボートから突き落とされたり、ののしられたり、編集者もたまったもんじゃない。
夜ごと、バーボンを飲まされ、酔うわけにもいかず、「疲れた」と言って、去る編集者もいたり、ありえないだろうという作家だ。
一時期、作家になりたいなあくらいの思いで、流行作家というか、日本の売れているという作家の本を片っ端から読みまくった時期がある。
そこで出会った作家である。「なんじゃこれ」と思いながらも惹かれるものに驚くと同時にあきれながら読んだ作家だ。
その行状を読むとやはりすごいな。
娘さんの手記に思わず、そうなのかと思った。引用する。「嫌だった、背広を着て会社に行かないことも…」という一行めに集約されている。
運動会に来るのに、それはないだろうと思える行動が唖然である。
昭和5年生まれの作家だった。わたしの親父は昭和6年だ。
はっきりいうと、年取ってよい人もいっぱいいる。しかしだ、思春期を戦後の混乱期で過ごしたためか、こんなふうに思う。伏字はご想像を。
「昭和一桁生まれは、ⅩⅩⅩⅩⅩだ!!」
2018年7月7日
巨星墜つ!
アーシュラ・K・ル=グイン(Ursula K. Le Guin)が、今年の一月。
先日、ハーラン・エリスン(Harlan Ellison)が亡くなった。
昭和4年と昭和9年生まれで、昭和一桁世代になる。そう考えると、それぞれの作品の先見性やテーマ性が輝きだす。僕は、その頃の親の子供の世代だ。
自分を振り返ってみれば、親から常に手伝えと言われていた印象が強く、年がら年中働いた姿である。生きていくため、生活するためにガムシャラに生きていた世代だと思う。
日本とアメリカでは敗戦国と戦勝国の差はある。
けれども、アメリカでも国内は騒然としていた時代で、その状況は様々なドキュメントで知ることができる。東西冷戦の時代だ。
目標を持つとすると明るい「未来」を信じ、突き進む。
本当に、それが正しいのか、その価値観は問題がないのかと常に問いかけていたのがル=グインである。
そして、同じ視線を持ちながら、よりスタイリッシュに表現しようとしたのがハーラン・エリスンだと思う。
ベトナム戦争を経て、アメリカは様変わりして、陰鬱な未来が描き出されつつあるときに、高度成長期を経た明るい未来を疑いもしなかった日本がある。
そんな時代背景を感じさせないのだが、作品の奥深さが、潜んでいる底流が気づかないものを気づかせようとしてくれていたように思う。
自分にとってのこの二人の作家は、まさに巨匠である。
与えられたインパクトは大きいし、もっともワクワクしながら読んだときでもあったからだ。
既に作品が書かれなくなって久しい。けれど、やはり次がないのが寂しいものだ。
SFマガジン8月号がル・グインの追悼特集号である。
詳細な年譜が記載されているが、参考資料に、このサイトの名前があった。いろいろあって早川書房の書物には、記載されないだろうと思っていた。
単純にうれしい。
2018年7月2日
なかなかにがんばっているのは、サッカー、一戦目はリアルタイムで見たけど、流石に二戦目は無理。
とはいうもの少しは起きていたのだけども…
米津玄師の曲を聞いてみた。個人的にはボカロのハチである。
ハチ時代の「結ンデ開イテ…」には、衝撃を受けた。え、これが10代が作るのかと唖然とした記憶がある。今、改めて聞くと「蘞い」。えぐいなのだが漢字の蘞いだ。
GUMIの声を多用してたような印象がある。「パンダヒーロー」で感心して、いろいろと探し出したものである。
今回、米津氏の声で聴くと、「アイネクライネ」や「Lemon」など、音の流れなど、らしいかなと思うけど、なんかインパクトに欠ける。
たぶんミクやGUMIの声で焼き付いているからだろう。
難しいところだよね。視聴回数が一億っていうのもすごいことだけど。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はモーツァルトの有名な曲、小さな夜の曲なんだけど、とてもとても穏やかな曲ではないし、女性形をつけているということは、軽やかな女性を表す曲なのかなと思えるほどの名曲。
一度は耳にしたことのあるリズムだろうと思う。
ハチ時代の最高傑作は「Mrs.Pumpkinの滑稽な夢」と思っている。イラストがすごくいい。
まだ20代後半、これからが勝負なんだろうな。
「すべてのジャンルはマニアが壊す」というのも、なんとなく気になった言葉。
新規参入を障壁と成すのはマニアか、それともディープなファンか。
確かに、そういう一面もあろう。知識量だけでは古手のマニアにはかなわない。
「ふふ、君はこんなことも知らないのかい、君には愛があるのかい。愛があれば、知っていて当然なんだよ。こんなことも知らないなんて、君は、君は、ファンを名乗る価値もない!」
「いいや、言っていいのかどうかわからないが、(ここでため息)君のためだ、今後の君のためにあえて言わせてもらおう!君にはファンを名乗る資格もない、いや(またため息)言うまいと思っていたが、君のために言わせてもらおう。君には生きている資格がない、ましてや、ここにいる価値もない、わかったかあ!!」
とは、ひと昔前のマニアであるが、ここまで酷いのは居ませんけど、近いひとはおったような。
こういう方々とは各個撃破が正しい戦い方ではありますが、自分もそれなりにむかつくとやってやろうかなと思いますけども、今は大人です。
え、マニアとは何かって、『その分野の知識量=自己存在理由』に限りなく近い種族ではないかと思う。
問題は、その知識量がこれまたレアな方向に向かうのがややこしくなる主原因ではないかと思う。
すべてのジャンル、仕事は新規参入者に支えられている。
新陳代謝が鈍れば、肥大するしかない。腹でも体重でもいいんだけど…
2018年6月25日
「ミスの何が悪いのか」
確かにその通りだ、チャレンジすればミスも増える。一生懸命やっていてもミスはする。
いまから2000年前のローマでは敗軍の将は処罰しなかった。
日本ではなんでもかんでも処罰する。仕事でミスをすれば、なぜか、どうしてかを問われ、感情的な問題として土下座さえしなければならない。
ましてや敗軍の将になれば、腹を切れと言われる。切ってどうなるわけでもないのに。
責任は問われなければならないのは確かだが、責任の取り方は、なぜそうなったのかが重要であり負ける原因を緻密に探らなければならない、その方が、後世にははるかに役に立つ。
いきり立ち、なぜミスしたと叫ぶより、その原因を探り対処を考える方がより重要である。
日本人は感情に流される。社会的な問題点を含んでいるのではないかと思えるほどだ。
権力の捉え方に問題があるのか、もしくは上しか見ない態度に問題があるのではないか。
ある痛ましい人災でも、倒壊の危険性をチェックはしていたという。チェックをしていてもそれが効果を発揮していない。
すべてがそうだとは言わないが、チェックはしていたというのが免罪符にしようとしている。もし、何かあればと想像力に欠けるのが日本人だ。
これを放置した場合に、どうなるのか、できることとできないことがあるが、少し想像力があればと思う。
問題の芯になる部分を、どのように捉えるかが難しい。
ささいなことや、できないことを、大げさにいうよりも、今、できることは何があるのか、それを問題にすべきである。
何もかもができることではないが、最終目標を目指して、改善を行う姿勢が大事なのだろうと思う。
2018年6月22日
『ローマ人の物語』にはまっている。歴史書ではなく、歴史小説として読める部分も多いし、なにより楽しめる。無味乾燥な羅列ではないところが良いと思う。
何より読者の眼を、この時代に注目させるだけの力を持つ。日本人には当然知っている織田信長と同じように欧米人にとっては、ローマの物語は基礎的な教養なのではないかと思える。
多少、嘘っぽいよねもあるが、そこは読者が判断していくべきだろう。
カルタゴと元老院「ローマ」との闘いである。チェニジア地方を拠点とする海洋国家カルタゴといまだイタリアを統一しきれていないローマとの闘いである。
ガレー船が登場する、三層の漕ぎ手を持つ船ばかりでなく五層の船を造らねばならないローマ、しかも海戦の経験に乏しい。
カルタゴとの闘いは初期はシチリア島争奪戦である。
海戦に乏しい経験のローマはなんともいえない方法を使い、カルタゴを撃退する。
驕りと工夫の違いが闘い方にも現れる。
硬直状態になったとき、一人の軍事の天才がカルタゴに現れる。
ハンニバルである。スペインから未開の地のフランスを横断し、アルプスを越えて、北イタリアからローマに攻め込む。
スペインを出るときは5万人と象37頭。途中、ローマに敵対するガリア人を吸収しながら、攻め込んでいく。紀元前200年の物語とは思えない凄さである。
稀代の英雄とはこのことをいうのだろうと思える。
特に象というのが印象的、象兵といい、『スターウォーズ』や『指輪物語』のような中世風部隊にしたスペースオペラやファンタジーでは定番の登場する敵役である。
巨大な生物を利用するのは、有利であるし、なによりも精神的な圧迫感がある。しかしアフリカ象を連れてアルプスを越えるのは至難の業であろうし、道なき道を行く、その不屈な精神力は尊敬に値する。
17年にもわたる第二次ポエニ戦争、別名ハンニバル戦争の幕開けである。
wikipedeia ハンニバルの項
2018年6月16日
塩野七生の『ローマ人の物語』を電子ブックで、読み始めた。
新潮社から出ていたが、新潮文庫で再販されたとき、読んだ。
いろいろあって、文庫版が手元にないので、再度、読みたいというときには買い直しか、電子ブックかで、電子ブックを選んだ。
全部で15巻。ガイドブックのようなものもあるし、エンターテイメントと書かれているよねと思えるところも多々、ある。
特に、ローマを脅かす相手に対して、これは書きすぎなんじゃないのと思えるところもうかがえる。
ただ、歴史書というより、ローマ時代の紹介書と思えば、腹も立たないし、下手な小説よりもはるかに楽しめる。
特に「ハンニバル」のところは大好きであるし、「ユリウス・カエサル」も忘れ難い。
少し前にBBCの「ローマ」というテレビ・ドラマがあったが、いたく感心したことがある。当時のローマの雰囲気をすこぶる味合わせてくれる貴重なドラマだった。
BS日テレで「小さな村の物語」というドキュメントをご存知だろうか。日本では田舎はなくなりつつあるが、イタリアではいまだに村があるのかと思わされる。
日本よりも、より山岳地帯のところで地道に生活する人々の物語。
なんというか、地方都市の国であり、世界一小さい国を擁する国でもある。
ローマにしても、ナポリにしても、典型的なアマルフィにしても、日本と似ていながら、まったく違う国情である。
かなり学ぶところがある国であろうとは思うが、愛人はいかんで、セクハラもいかんで、なんか日本人が思うのと違うところが多すぎる国ではないのかと思える。
歴史を学ぶのは、違いを学ぶことでもある。
でも素敵な国である。
一度でいいから、「フォロ・ロマーノ」を見てみたい。
2018年6月11日
ラ・ロシュフコー(Francois, duc de La Rochefoucauld)、もしくは、『悪魔の辞典』 The Devil's Dictionary アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce)風に、
「人は、金を使うのは好きである、しかし、その記録をつけるのはへたくそである」
『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール(Jacob Soll)を読む。今年の4月に文庫になっている。読みたいなとは思っていたが、文春のノンフィクションのファンである。
とっても素敵なラインナップなのです。
で、かねてより複式簿記なる忌まわしいものを発明した奴は誰だと思っていた。
簿記そのものは経営には必須である。
金融工学というとんでもないものが登場し、国際会計だの、世界標準だのと言われていても、どこか日本はゆるく感じられる。
国自体が莫大な借金を背負っていてもだ、明治政府でさえもとんでもない莫大な借金を背負っていたのだが、何度かの戦争でチャラになっている。
世界的に見たら、戦争のたびに、なんかチャラになっているのねと思ってはいたけれど、そんなことはないようだ。
フランス革命の発端に疑問があった。王女が「パンがなければケーキを食べればいいわ」ということを言ったのかもしれないが、高価な首飾りを奪われたのかもしれないけども、なぜに革命が起きる。
なにか、決定的なトリガーがなければならないと思っていた。
たぶんに忘れていただけかもしれないけど、思い起こさせていただいた。側近の会計報告の暴露、いや、本人は暴露と思っていない、良かれと思っていることであれ、それが民衆の知るところとなる。
悪意を持った存在には、それだけで十分である。革命に至るまでには、民衆のパワーを貯めなければならない。
きっかけが必要である。
みすみすそんなきっかけを体制側から与えられたわけである。
でも本人は、そんなことをかけらも思っていない。
正しいと思うことは成すべきである。信念に従い、正しいことをすべきであろう。
細かい些末なことをどうのこうのいうよりも、国の借金をどうするのか、制度を合わせるために議員数を増やすという愚劣なことをする状態ではないだろう。
日本の政治家の再教育も必要だろう。
複式簿記さえもできない政治家が多いのではないか。
複式簿記は、多くの経験則の物語であった。偉大な発明はけっしてひとりから生まれるわけではないということでもあるようだ。
2018年6月6日
体調が悪い、なんだか眠れないし、お腹痛くなるし、弱ったものだ。元凶は、なんとなくわかっているのだが、う~ん…
仕事も忙しいし、困ったもんだ。
一作めが話題になると二作目がいまひとつという場合が多い。今年はじめに出たある作家の二作目は、傾向は違うのだけど、一作目にしてはという評価になってしまう。
ヒットした一作目にどうしても引きずられてしまうのだ。
作家の方も怖いよねえ、この作品の、この作家の二作目だというふうに売り込まれるわけである。
水準作だとしても、どうしても色眼鏡のサングラス、あつまさえ期待値までプラスされてしまう。気の毒というか、それが作家の宿命だろう。
そこをいかに乗り越えるべきかが、問題だ。お笑い界でも一発屋はいるけれど、小説でも、ゴロゴロしてるわけで、書き続けることによって、再びのヒットを生むか、新境地を開くか、大変な努力をしなければならない。
会社で適当に生きていけばいいやということにはならないわけで、実際、会社で適当というわけにはいかない、実績がものをいう世界に変化している。
日本的な社会が破壊されつつあるのも事実だろう。今回の某大学のアメフットも旧来の体制の破壊である。情報は武器になり、世界を変える。良いところは残してほしいのだが…。
あまりにも利益を搾取している、なにもしないひとが、旧来のルールを振り回しているというなら政治こそ変えるべきだろうね。
いかん、悪い癖だ、脱線した。
二作目をふたつ。
『メカ・サムライ・エンパイア』 ピーター・トライアス(Peter Tieryas)、前作の『ユナイテッド…』は、力が入りすぎなんじゃないのという感じが強くて、いまひとつ楽しめなかったのだが、今回は肩の力が抜けて、一人の少年の成長物語をからめながら、まるでゴジラ対メカゴジラ的な展開になっている。
誉め言葉なので。こちらの方が好ましい。脱力感を感じていて、もしかしたら良い作家になるような予感がする。シリアスさが足りないとか、世界構築が物足りないとかがあるかもしれないけど、確かに前作以上の世界観から脱していないのは事実だけど。楽しい。
『アルマダ』 アーネスト・クライン(Ernest Cline)、一作目は読んでない。二作目を読んだら、あ、一作目もこんな感じなのかなと思えた。ゲーム小説というよりゲーマーの物語、実にのびのびしてて、好き。
世界を救う、SFのおもしろさは、ここに尽きる。特にヲタクで根暗な奴が少しづつ成長しながら、困難を乗り越え、明日を信じて、渾身の一撃の大勝負をして世界を救う。
素敵だ。これこそ最高の醍醐味だ。
2018年5月31日
「あどせ・・」さま
わたしは、今、思っています。「あどせ・・」さまは、広告を貼れば、見ていただくだけでも収入になるというありがたい広告でございます。
クリックしたりなんらかのアクションがないと報酬が発生しない広告とは一線を隔しています。
わたしの知る限りではかような広告はございません。圧倒的な魅力でございます。
しかも「あどせ・・」さまは、丁寧なアドバイスもいただけます。
こうした方がいいよ、このようにすればいいよと教えていただけます。それだけではありません、何%かの収益アップが見込まれますと教えていただけます。
教えていただけた通りの効果が出るかどうかは、サイトの管理者の腕次第でございます。
あくまでもアドバイスはアドバイスであって、実行効果に対する責任はございません。
効果が出ないじゃないかとわめいても、あくまでもアドバイス、実際に行った管理者の問題です。
何%かアップすると書いてあるではないかと叫んでも、つまり長い目で見た場合なのか、ほかの多くのサイトの結果なのかであって、あなたのサイトでの効果でない場合もありえるということですね。
実行した管理者は、このようなアドバイスを軽々と信じてはいけないということでもあります。
何回か、痛い目に合って、よくわかったつもりでいたが甘かったです。
自動広告は、ヘッダーにコードを書いておけば、サイトの構造を分析し、最大の効果を発揮する場所に広告を打ちますというものであります。
しかし、どうやら、ある程度の訪問者数を持つサイト、もしくはブログ形式に適しているようで、ここには合わなかった。
あまりにも落ち方が激しいので、さすがに耐えきれなくなり、戻しました。
一日訪問数が700人くらいではまったく効果がないらしいというより、ファイル数が多すぎるのもひとつの原因らしいです。
トップページに必ず来てから分散するタイプ、トップ→該当ページに移行するサイトのタイプの方が圧倒的に多いと思われます。
このサイトでは、作家別のファイル構成がセンターなので、あくまでもインデックスページは道案内に過ぎません。ですので、目的のファイルに直行されてもかまいません。
そのため、たぶん作られてから、まったく訪問者のないファイルも存在してます。
うっかり楽できるという罠にはまりました。
と、いうことで元に戻しました。また無駄な作業をしてしまいました。
地味にしなきゃいけないのにね。
2018年5月25日
今週、密かにというか、アップロードに時間がかかったけど、何度目かの大幅リニューアル、たぶん何十回めかのリニューアルをした。
相変わらず、アップに時間がかかる。全部、アップロードすると3時間くらいかかる。なにせ約4万ファイルくらいある。
じんわり増えてこの数量なのは、びっくり。
この一年くらいビジネス関連の出版社を登録してて、あきれるくらい新規登録が多かったためである。
不毛かなあと思いつつ、やっていたが、一応、一区切りついた。
本来の登録作業に戻れそう。
アドセンスの手動広告にしていたのを、自動広告一本に変更する。
ホームページ内のアドセンスの広告、テキストや画像広告は三本までという制限がある。それゆえ、どこに表示するかを考えるわけだが、自動広告は、グーグルの方でコードを読み取り自動配信してくれるという。
それならばと、自動広告をオンにしたけど、とりあえず手動広告を残しておいた。
微妙な売り上げになったので、手動広告を削除することを決め、実は手動広告のコードが邪魔で見にくかった。
骨格になるコードは全部で40行くらいなので、その昔、表で表現していた頃のコードはもっと複雑怪奇で、いまみたいにCSSで制御をまとめられるのも楽。
ただ、たまに何をどうしたかを忘れてしまうんだよね。
広告のコードは、三行くらいにまとまられるけど、けっこう邪魔だった。
結果、どうなったかというと、売り上げ激減、ある程度予想はしていたので、覚悟はしていたが、時間をかけないと本当にアドセンスは難しい。
また、その広告も、「ここかよ」と思われるところに出現する。なんか妙。
数は命なのだけど、累積数にも影響されているようだ。
ユーチューブのように新規、新規で勝負をかけられるもの、また確実に見てくれる状況を作ってくれるのと、こんなサイトでは勝負にならない。
新規ではなくて、改変、改変でのサイトの不利さがある。
少しはなんとかならないか、と思うが、現在のような新規コンテンツ優位の時には無理なんだろうなと思う。
しかたない。
少なくとも、訪問者数を減らさぬように努力すべしというところだろうな。
2018年5月20日
成功体験は積み重ねるけど、それはまるで不用品を入れてある段ボール箱のように、そして成功体験を語るごとになぜか肥大していく。
「おれの時はねえ、おまえら、わかるか、わかんねえだろうな、これこれこういう事があってだな、これこれこういう事をして、今の俺があるんだ」
ささいなことが、どういうわけか過大な自己評価につながる。地面に置いた段ボール箱が小さかったのが、語ることによって巨大に巨大に、本人の自意識の中心になっていく。
哀しいことに、次に絶好のチャンスがやってきたとき、その成功体験の縮小再生産しかできなくなる。
しかも強引に、この手法で成功したから、その手法をあてはめるために強引にその手法が通用する方法へ導く。
周りは大変な迷惑である。
「だから、今回はその時とは違うので別の方法を取りませんと」などというものなら逆鱗に触れたとかいいながら怒鳴り散らす。
「俺のやり方は、こうだ、おまえは何も分かってない」違うということさえも拒絶する。
しかし、そこにさらに上が来るとこう変節する。
「あ、今回は○○くんが、がんばってくれてますから、大丈夫です。お任せください」
失敗すると○○くんが全責任を取らせれてしまう。
今回は、たまたまうまくいかなかっただけ。
人間だれしもそういうところがあるが、悲しいかな、あまりにも考えてなさすぎる。
こういう人は、失敗は風船であって、いつのまにかどこかへ飛んでいく。もしくはガスが抜けて地面に転がっている。
それこそ、あんたには大事なものではないのですか。
成功などは、その辺に転がしておいて、肥やしにしなさい。
あなたの一番重要なものは反省と、他人の能力を認める許容と、失敗から得られることを理解する知識と、自分の能力の限界を理解する勇気だ。
と、思う。
反省。
2018年5月16日
『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 誕生 赤い彗星』を見る。
正編の前史を描くというもので、アシモフのファウンデーションシリーズなどに代表される間隙を埋める物語。
昔はこういうパターン好きでなかったんだけど、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』でもやってるし、ジャック・キャンベルもやっている。
どう繋げていけばいいのかが、興味の対象なのだが、このTHE ORIGINでの最大の問題点はキャスパル・ダイクンがなぜシャア・アズナブルになるかである。
これに関しては穴だらけだよねと思いながらも、かなり苦労してるよねというところ。
しかし、そのあとからおもしろくなった。ルウム会戦なんか、おもわずワクワクしました。
今回のもおもしろい。やはり戦いを描かないとガンダムではない。
この6話で正編へ繋がり終了したが、何かの対談で、もう一度再作成したい正編というのがあったけど、ぜひ、作ってもらいたいと思う。
見るね、絶対、見ますね。
少しはストーリー的に変更しなければならない部分もでてくるでしょうけども。シャア視点の物語で再生してほしいな。
2018年5月12日
俺はラーメン屋だ。なにがなんでもラーメン屋だ。
なのになぜ冷やし中華ばかり売れるのだ。
インスタグラム、なんじゃそりゃ、SNS、それはなんだ。そんなもので商売に影響するとは哀しいぜ。
必死にうまいスープを考え、うまい麺を考えてきたんだ。麺の歴史、小麦粉の歴史さえも熟知してるんだ。それなのに、なぜ冷やし中華なんだ。
俺のラーメンを食ってくれ、うまいはずだ。なのになぜか、来る客、来る客、みんな冷やし中華なんだ。しかもスマホをかざしている。
理解できない。渾身のラーメンを食ってくれ。
しかし、ものは考えようかもしれん。いまこの夏に向かう時期に冷やし中華、冬はどうする。
なぜ、冷やし中華が売れるのか、他の店と外見的にさほど変わらない。うむ、麺がうまい。冷たいとうまいと、俺のラーメンはどうなるのだ。
冷たい麺が受けている、冷たい、ならつけ麺にしてみたらどうなのだ。
いや、それはラーメンではない。邪道だ。しかし背に腹は代えられぬ、売れればいいのか、いや売れなければなんにもならない。
銭は大事だ、自分のプライドよりも大事かもしれない。
ここは、妥協しよう。そうしよう。
なぜだ、つけ麺が売れないのはなぜだ。相変わらず冷やし中華しか売れていない。ラーメンなどは誰も頼まない。
いかん、夏が終わる。俺はどうしたらいいのだ。
「はいはいはい、あなたの悪戦苦闘わかるね、苦しんでるね、わたしが、つけ麺もラーメンも売れるようにしてあげよう」
おお、ありがとうございます。ど、どうすればよろしいのですか。
「冷やし中華だけで、チェーン展開を考えるね、わかる、一店舗だけでなく夏場だけでも食えるようにするある、それには資本力が必要」
「ふむふむ」
「ひと、かね、もの、あなたに欠けているものは何か、わかるあるかね」
「たぶん、かね」
「ち、ち、ち、全部欠けてるね、でもわたし来たから、ひとの問題は解消ね、さ、いっしょに天国にまいりましょう」
はい、わかりました。
一歩、間違えれば奈落の底、商売は怖いねえ。
2018年5月8日
電子ブックを毛嫌いしてたわけじゃないけど、なんだかなあ、手に感触がないと読んだ気がしないし、残量がわかりにくいとなんか読む気力が失せるし、読み返したいと思っても、この辺だったなが、見当つけにくいし…とは思っていたが、スマホで読めるのは何かと便利である。
現物を持たなくていいというのはうれしい。しかしコレクターとしての満足感はまったくない。
グーグルとかアマゾンとか、いくつか試したが、現在はブックライブを使っている。ウェブマネーでお支払い。
ブックライブがわりと読みたいという本があったので。
昔、読んだものを、現在、所有していない本を読みたくて。
西村寿行の『滅びの笛』『蒼茫の大地、滅ぶ』を読む。動物パニックものの二作。『滅びの笛』は山梨県と長野県で笹が開花し笹の実が大発生し、それを食べた鼠が大量発生し、ひとを襲うというお話。
鼠嫌いなひとには、とてもとても読めないお話で、しかも大発生するのが「ハタネズミ」ではなく、一回り大きい「ドブネズミ」なのである。
しかもハードロマンの寿行である。男は耐え忍び、堪えに堪え、やがて怒りは頂点に達していく。女は蹂躙され愚弄され、悲惨な状況へ追いやられる。
西村寿行は締め切りを守る作家で、一日20枚を書き続けていたということである。で、夜は宴会、一日半分のバーボンのアーリータイムズを飲んだという話である。つきあうのは編集者。
まあ、大変な作家だねと思うが、売れていた作家でもある。昭和5年生まれ、平成19年、76歳で亡くなっている。
描写に関しては、またこれかと思うところも多々あり、作品もいくつかの傾向に分かれ、同テーマでいくつかの作品が書かれていたりする。
多作家だから、致し方のないところで、ぱちっとはまると、凄いと思わせる作家でもあった。
その『滅びの笛』、中盤にはいるとペスト菌を持っているという新たな衝撃が加わる。この辺が売れていた作家らしく、実に技術的にうまい。
しかも自然を大切にしろという最大のテーマがクライマックスにからんでくるという傑作。山梨県は全滅してしまうのだけど。
続篇がある。『滅びの宴』だが、こちらは失敗作。
ペストによる黒死病の恐怖は歴史の本を読んでも実体感がなかったがコニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』では、ひしひしと感じられた。
タイムトラベルものであるが、歴史学の学生の女の子が14世紀に行き、間違えてなかなか帰ってこれなくなるという物語。
感動的。
コニー・ウィリスは人の死の『航路』、イギリス空爆の『ブラックアウト』『オールクリア』などのターミナルな状況を描くと非常にすばらしい。
西村寿行、『荒ぶる魂』『蘭菊の狐』『虚空の影落つ』あたりかな、有名な犬ものの『老人と狩りをしない猟犬物語』や『黄金の犬』は、そのうちかなあ。
2018年5月5日
交渉事において、いかに相手をビビらせるかという方法がある。
だいたい、上は嫌がる、なぜ、俺がでなきゃいけないんだよ。おまえがやっておけばいいじゃないか。
多くの場合、部下の持つ不満点がこの部分に集約されている。
下に任す。冗談じゃないよ、おまえが出なきゃ話にならんだろ。そうなんだよ。みんな若い時に苦労したはずなのに、年取ると繰り返す。
なんか妙なプライドとか、性格からくる内弁慶、もしくは交渉下手、もしくはゴマするしかない唐変木。
いやいや、かならずなんかしらの欠点は持っている。俺は欠点なんか持ってないというひとがいるが、それは自分を知らないというか、見えてない岡目八目。
ということで、先週の回答めいたものを
「わかりました。上司と相談してきます」
はい、零点
「わかりました。しかし、御社の立場もわかりますが、これはなんとしてもやっていただきませんと、困ります」
はい、零点
「御社の状況は重々承知しております。どのようにしていけばいいのか御社とさらなる交渉をさせていただければと思います」
はい、40点
「御社の立場もわかっております。これ一度の話し合いでもありませんので、次回はわたくしども上司も連れてまいりたいと思います。その際には御社の今後の会社としての次なるマイルストーンを教えていただければと思います。私共がどのように協力できるかも提案できればと思います」
これぐらいで60点かなあ。
上司が嫌がれば、全部白紙だけどね、しかし、なぜ、こうも能力のない上司は、ひとに責任を負わせたがるのかが空しい。
変化を怖がる傾向もある。商売なんて変化の連続だよ、それをいかに乗り越えていくかが大事だ。
年中同じことをしてたら、それでいいというのは間違いだ。
年年歳歳、変わりゆく状況に対応しなくてはならないはずだ。
2018年5月2日
『日本SF傑作選5』光瀬龍である。宇宙年代記はすべて読んでいる。傑作と思うのは『征東都督府』である。
歴史改変ものであるが、その原因となるものが変。だいたい何かしたらとか、あの時しなかったらというのが多いのだが、そりゃま、そういうこともあるのかなとは思える。
宇宙ものが有名な著者だけど、ジュブナイルやタイムパトロールものもある。
『喪われた都市の記録』、『百億の昼と千億の夜』など、レイ・ブラッドベリのような叙情性のある作品を得意とする。
今回の作品集の後半、「マーシャン・ロード」「東キャナル文書」がそれに当たる。
しかし、思ったよりもSF、SFしてない印象には、改めてこういう作家だったっけというふうに思わされた。
アイデアよりも、書き方で読ませるため、読むたびに違う感じを抱くのかもしれない。
映画『レディ・プレイヤー1』だって、原作はアーネスト・クライン、聞いたことないなあと思ってたんだが、これがSB文庫、2014年。
ソフトバンククリエイティブなのだが、2013年までしかリストが作っていなかった。
やろうとは思ってたんだけどね。
後手になっています。
近々登録予定。
2018年4月28日
昔、昔、ある買収された再建会社に行くと、なぜか常務がでてきました。
わたしはびっくりしてしまいました。実は値上げのお願いにお伺いしたわけです。はっきり言って、再建会社では、すんなりと認めるわけもないよねと思っていました。
格別、良いアイデアも出るわけもなく、宣言をして、その場を去るべきであろうと思いました。
挨拶が終わり、いきなり「君は再建会社に必要なものは何かと思う」と聞かれました。
当然、値上げのお願いに訪問しているわけで、まさか買収した会社の全権委任された常務が出てくるとは思いません。
ああ、これは値上げのことを言っているのだなと思い、「仕入れ値を下げて、売り上げを増やすことだと思いますが」と、おそるおそる言いました。
相手は赤字工場をいくつも再建してきた方で、業界にも知れ渡っていました。
「ふむ、それはここが、良くなってきた場合の話だな、それは今の段階では必要ない」
その雰囲気に飲まれてしまいました。
「それでは何が必要なんですか」
「環境だな、社員の働きやすい環境だ」
「給料を上げるんですか」
「給料だけではない、働くには、それだけではないだろう」
バカなわたしは、「と、言いますと」
「精神的な環境と物理的な環境がある。ここは劣悪すぎるのでやりようはいくらでもある」
「はあ」
「まずは風通しを良くする、実際の作業現場だな、グリーンを用意し、憩いの場を提供する。次に、なんでも相談しやすい状況にする」
「大変ですね」
「そうだろう、君もわかるか」
「なんとなく…」
「なんとなくか、寂しいな」
「いえ、あのなんというか、ひとを使ったことがないもので」
冷たい目で見つめられると「想像力はないのかね、ともかく今は再建のための環境整備の時だ。報告したまえ。まだ、その時期ではない」
勢いと視線で押されたが、問題です。ここで、どうするのが正しいのでしょう。
どう常務を説得すべきでしょう。
答えは次回、また来週!
え、本当に回答すんのか
2018年4月25日
アニメ『銀河英雄伝説』を見る。懐かしい。最初読んだのは確か1984年頃、阿佐ヶ谷の貸本屋で借りる。そうこの頃、まだ貸本屋があった。その店もずいぶん長くやっていたけど14~5年前に止めたようだ。
売れなきゃ続きが出ないという扱いの一巻目、読んだのはおもしろいと言われて、三巻目くらい出ていた頃だったはず。
4巻目以降は買いました。文庫版でも買いました。
確かにおもしろい、しかしこんなに宇宙船がわさわさ出てきていて、なぜか地上戦のような趣のある戦闘シーン、ごちゃごちゃ言ってもしかたがないが、未だにアメリカ陸軍でもローマ時代の戦い方を教科書にするわけで、人間の想像力には限界がある。想像力ではなく、物理的な制約かな。
仕事でも時間と空間の制圧に悩んでいて、物流のアルゴリズムをいかに作り上げるか。荷物ではなく「ひと」なので、一概に枠にはめることはできない。
点と線の組み合わせで、あれやこれや考えるのだが、技能の差や性格の差、道路の選択の差、ひとつのひとつの不安定な要素が多すぎるので、最後は「勘」。
最初に選択した「勘」みたいなものが良かったりするからわからないものだ。
『銀英伝』、何度目かのアニメ化だけど、期待しましょう。現在、第三話か。第一シーズンが12話とのこと。セカンドシーズンは映画らしい。キルヒアイスがどこにくるのかな。
『ダーリン・イン・ザ・フランキス』、アニメ制作会社のTRIGGERの作品を見ている。『キルラキル』でえらく感心させられてしまったもので。70年、80年代の「ノリ」でつくったという『キルラキル』だが、毎回、このテンションは持つのかいと思いながらも、凄いと思わされた。で、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』を見る。第一シーズンは『エヴァ』へのオマージュか、または焼き直しかと思ったが、第二シーズンになった途端、テンションがあがりはじめた。
おもしろいね。2013年から2014年ころがアニメはひとつのピークを迎えていたようにも感じるが、いま、また盛り上がってきているようにも思える。
2018年4月21日
ラリイ・ニーヴンの傑作集、『無常の月』が出版された。
映画化される「無常の月」に合わせての傑作選だが、ハリウッドの映画化は無くなることも多いので、どうかなと思っているが、小説は映画化しやすそうな題材である。
前も映画化の話があったような記憶があるのだが、調べるのは大変なのでやっていない。月が突然輝きだし、スーパームーンではなく、ウルトラウルトラスーパームーンくらいの輝きである。
太陽光の反射であるから、当然、太陽に何かあったのである。破滅テーマと思っていたけど、少し違って救いのあるパターンになっているのに、ニーヴンらしさを感じた。
救いがあるといっても、そんな明るさではないのだけど。
ニーヴンの凄さはこの短編集からではあまり感じない。アイデアストーリーが多いし、シリーズも多い。
『リングワールド』、太陽をめぐる巨大な指輪を作ってしまい、その太陽側に住むというお話。昼も夜も太陽は空に輝くので、遮蔽版を用意して夜を生み出す。
笑ってはいけません。この辺がニーヴンのユーモアであるように思う。
物理学者のフリーマン・ダイソン(Freeman J. Dyson)のダイソンスフィア(Dyson sphere)の変形ヴァージョンである。
壮大な世界を相手にしているわりに、なぜか物語的には妙なところに落ち着いていくのが実にいいのだが。
このリングワールドも映画化の話はあったが、なくなっている。壮大な姿を映像で見せるとどうなるのか、期待していたのだが。
「終末は遠くない」は剣と魔法の世界に魔法にもエネルギーが必要だろうというのがアイデア。
この考え方、魔法源をマナと称し、変形アイデアはいっぱいある。
わかりやすいんだよねえ。
『インテグラル・ツリー』は復刊してほしい。
傑作と思える『悪魔のハンマー』は、ちと内容に問題あるので、復刊は難しい。特に日本では。
『神の目の小さな塵』は傑作。
個人的には『降伏の儀式』は最高。ダンボが攻めてくる。
2018年4月14日
『ランボー』という映画がある。
シルベスター・スタローンの主演である。この原作が、『一人だけの軍隊』 First Blood デイヴィッド・マレル(David Morrell)である。
作家としてのデイヴィッド・マレルは、好きな作家のひとりである。
最初の映画は原作に忠実である。二作目、三作目とだんだん怪しくなるのは、しかたがないとも思う。
一人で軍隊って、つまりたったひとりで軍隊並みの動きができるということである。
ひと昔前であれば「わたしは部長しかできません」という笑い話もあったのだが、現実にはそういう人物もいまだにいる。
「俺は能力が高いんだ。パソコンくらいはできる」と一本指で打つという笑えないひとや、「パソコンは若いもんにやらせる。俺は命令すればいい」って、その会社全体のシステムや必要な資料はどのようにファイリングされているのか、さっぱりわからなかったりするものだから、自分勝手に自分が見やすい、わかりやすい資料を求めるという二重手間を平気でかける。
膠着化した思考ほど迷惑なものはない。
社会に出たひとたちでも、自分の考え方に膠着するひともいるようで、同じような言い方をするひともいるようだ。
目指すのは、ひとりで総務、経理、営業、製造、品質管理、生産管理、雑用までできる、まさに『一人だけの会社』を体現できるようになってほしいと思う。
ワンマン・アーミー、こんな言葉はないけれど、そうなれるように頑張ってほしいなと思う。
そうでないと起業など、夢のまた夢に終わってしまうような気がする。
某どこやらの事務所と軍団がもめているが、現場と管理の乖離の問題であるように思う。どこでもあるんだけど、まったく儲けていないのに自分の力で儲けているように錯覚してしまう。
内紛はどこにでもあることだし、仲間で起業すれば失敗しても成功しても必ずもめる。
蜜月は冷めるためにあるものだ。冷めたあとが、真価を発揮しなければならない場なのだ。
新人よ、がんばれ!!
2018年4月7日
22年めである。いろいろあった21年だが、こちらは変わらず存在している。
ずいぶん内容も変わってきた。やれることは増えているのだが、資料をまとめるだけでも大変である。
こまめな更新を行っているが、大幅な改変がなかなかしづらい。弱ったなあと思っているのだが、一部変更をはじめている。
主にレイアウトである。見にくいというか、美しくない部分を改良中。
『ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン7をようやく見る。第六シーズン、第七シーズンとぱたぱたと拡げてきた大風呂敷をいきなりたたみ直しているように見える。
張ってきた伏線をまとめているんだろうけど、第五シーズンまでと比べると流れが速すぎないかとも思う。
それと今シーズンの距離感と時間線があまりにもいい加減に感じられる。
ドラゴン・ピットから王宮まで、一日に何度も往復できるほど近いのか、いかにドラゴンであろうともそんなに簡単に壁までたどりつけるのか。
と、細々としたことが気になる。
ファンタジー、この作品も異世界ファンタジーなのだけど、惑星に移住した人類と原住民、新たなる侵略者の戦いでありそこはSFの味付けがしてある。なのでリアリティを追求していたように思う。
多くのファンタジーの場合、箱庭的な広さ、ご都合主義的な時間間隔がある。それを避けるために現実の世界から少し変化した世界を構築する場合が多々ある。
かの『指輪物語』でも箱庭的な広さから脱し切れてないと思う。世界をまるごと構築する想像力はかなり疲弊する。
小さい世界で展開しながら、広大な世界を垣間見せるのがファンタジーのおもしろさであり、それが世界観であると思う。
こう考えてくると、そういう作品は少ないなと思う。『氷と炎の歌』は力業のようなところがあって、惑星まるごと構築するのかと思われるような凄さを感じる。
ドラマ版が先行しているので、本は書かれるかどうかわからなくなってしまった。
気長に待ちましょう。一作目から既に20年か。
2018年3月31日
パソコンが壊れた。
久々のことであった。6年ぶりか、液晶にムラが出ていたし、やばそうだなと思い、データはばっちりバックアップを取っておいた。
それでも操作中に液晶がおなくなりになったものだから、いくつか救えないファイルがあったのも確か。
再設定のめんどくさいこと、そもそもWindows10で動作保証をしていないツールをいくつも使っている。そのツール類がないとやっていけないのだ。悲しいことに。
それに前のパソコン、ノートであるが、ずっと「Ctrl」キーが壊れていてかなりキー設定を変えていた。
おかげで変なくせがついている。ともかく繋ぎのノートパソコンはなんとかなったわけだが、DELLである。またDELLかよと思いつつ、一度ぶっ壊しているのであるが廉価版はさすがにおもちゃみたい。
恰好良いものは求めていない、実用一点で使えればいい。
マイクロソフト標準のソフトを使うとこれはどこにあるのかと迷うことが多い。「Outlook」などいまだに良くわからない。
スピードもそこそこ、ゲームをするんじゃなきゃこれで十分。
メモリ増設の際、キーボードを取り外し、裏蓋もはずさなきゃいけないのは勘弁してほしい。これは非常識だ。パソコンを分解したことのないひとには大きなプレッシャーになる仕様だ。
Windowsもハードもブラックボックス化するのはないと思う。開けるなということだろう。
BIOS設定が勝手にWindows仕様になっている部分もある。
BIOSは、たいていのパソコンにある。非常に簡略化されているのもある。大昔はAMIかAWARDくらいだった。
起動時のロゴが出たところでF2やらF12を押せば現れる。あれ、ずいぶん細かいなと思ったが、よく見ると必要のないものばかり。こんなものをいじってもとても効果はあるまいなとファンクションキーを使えるように設定した。
しかしえらく時間かかった。
今回、少し毒気を抜かれてしまった。無くてもなんとかなるんだったら、そんなに気合を入れてもと思った次第。
ともかく、がんばるべえ
2018年3月25日
やっと落ちていた翻訳本リストの登録の終了が見えてきたような気がする。
収録し直すかと思い始めて、一年半、まだ道半ばではあるけれど。
ビジネス本である。
PHP研究所(PHP Institute)、日本経済新聞社、CCCメディアハウス(CCC Media House)、ダイヤモンド社(DiamondSha)、ディスカヴァー・トゥエンティワン(Discover21)、東洋経済新報社(Toyo Keizai Inc.)
しかし、良く出ているということは、売れているということでもある。
内容は人間関係と金に集約されるのであるが。
題名に、数字をつけるのが皆さん、お好きなようで、特に3、5、7の奇数、もしくは10が好きなようだ。この数字の組み合わせも好まれるようだ。
三人寄れば派閥ができるというのが人間の社会である。しかし書名だけ見ているだけでお腹一杯の気分にさせられるのはなぜだろう。
翻訳というフィルターがはいっていることを考えてみると、ある程度の水準に達しているんだろうなとは思うのだが…
日本の和書、特に新書は『なんとかの壁』以降、もしくは『人は見た目でどうのこうの』、『さおだけ屋はなぜ…』以降、親父の愚痴化は酷いものがある。
本屋で見れば見るほど、この本を誰が購入するのかと思える。特に職場うんぬん、若いもんの社会的特性うんぬん、昔はこうだったうんぬん、それらは居酒屋の親父の愚痴レベルであろうし、啓蒙ではなく、下劣な共感を求めているように感じられるのは何故。
出版は文化であり、それなりに世に問うものでもあるとは思うのだが、商業主義に走りがちな中だが、儲けなければ会社ではないは真実であり、それゆえ90%は葛であるわけであって、金を儲ける手段としての作品と、本気で取り組む作品とがあるのは致し方ないとは思う。
さて、『世の中の99%は金で解決できる、しかし残り1%が問題だ』という本は売れると思いますか。
ビジネス本の多くは、一行に集約されるのではないかと思える。事例の中からいかにコア・コンピタンスを見つけるかと似ているように思う。
行動か、知識か、最初に行動あり、それが知識により体系化されるのが大事であると思う。
しかし、会社研修でそんなことはひとつも出ない。
なぜなら会社は自社に不利なことは従業員に教えず、会社に有利なことしか教育しようとしないから。
そんなことばかり繰り返していると、どこかで破綻すると思えるのだが…米百俵の精神はどこへやら。
2018年3月10日
ようやく映画『メッセージ』を見る。評判はよかったし、おもしろい。
コミュニケーションの物語だ。出てくる宇宙船が「ばかうけ」だとか言われているが、わたしはカビ付けした鰹節だなと思った。
鰹節のような味がある。
『あなたの人生の物語』 テッド・チャン(Ted Chiang)が、原作。読んではいるのだが、まったく思い出せないのは情けない。
「理解」とかそちらの方がおもしろかったといううっすらとした記憶のみ。
映画は異星人とのファースト・コンタクトに始まる。なかなか言語での会話がかみ合わない。人間がどういうものかわかっているのなら、それなりに準備してやってくればいいのにと思うのだが、と最後まで見ると思ってしまう。
悲しい物語を含みながらも、楽しませていただきました。
『風から水へ』鈴木宏 論創社、出版人の回想録がここ2、3年よく出版されているように思う。その中の一冊。
このサイトを作る過程で知った出版社が書肆風の薔薇、のちの水声社である。ラテンアメリカ文学のリストをまとめるなかで、知った。
ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel García Márquesz)の著名な『百年の孤独』は途中で挫折したまま、あまりいいラテン・アメリカ文学の読み手ではないのだが、実は気になる。
そのうちにと思っているうちに、機会を逃すんだよね。
水声社の社長のインタビューである。前半は半生であるが後半は零細出版社の内情である。外文(外国文学)の愛読者は一説には3000人ともいわれている。つまり金を出して本を購入するファンが。
数値的なデータをよく見ると、それも頷けるような結果である。
外文読みはいかに少ないのか、コアなSFファンも似たようなものかもしれないが。
水声社を意識したのは『煙滅』 ジョルジュ・ペレック(Georges Perec)である。この作品、リポグラムという文字落としの技巧を使って書かれた作品。
ペレックはフランス人で「e」を使わない作品を書いた、フランス語では「e」を多用する。そんな実験作を翻訳してしまったのも凄い。「い」の段を使わないそうである。
実は読んでない。購入しようとしたら、本が高い。買おう買おうと思いつつ、すでに7年経過。
ついね、読まねばと思っているものが多いのです。
『風から水へ』の中には、ずいぶん気づかされることが多かった。零細企業の社長は、本業では一社員として稼げる手段、もしくは外で給料を稼ぐ手段を持たないといけないものなんだなと改めて思わされた。
夢の印税生活などと呑気に言えない、情熱あふれる方々に支えられているということもよくわかる。
赤裸々に描かれた一冊。ちょいと積読をしていたんですが、素晴らしいです。
2018年3月3日
子どもの頃、『エイトマン』が好きだった。石森章太郎の『幻魔大戦』も好きだった。漫画は途中で中断し、この「月」はどうなるのだと思っていた。
それから10年ほど立って、その続きを読めるとは思わなかったが、なんか違うよねと、思った。あらぬ方向に物語は進みはじめ、あっという間にとんでもない事態になってしまった。
平井和正。情念の作家、SF的なガジェットを駆使するが、基本的にSFではないというイメージだった。しかし西村寿行のハードロマン、バイオレンスロマンものに先行することウルフガイシリーズは、平井和正に書かれるべきして書かれたようにも思う。
『日本SF傑作選4』には、平井和正の初期の短編と長編は収録されている。『超革中』が収録されていると勝手に思い込んでいたけれど、違いました。
再度、読んでみると、昔のイメージと変わらない。個人的に、こんな作品を書いてみたいと思った時期もあった。
『幻魔大戦』1万8000枚、『ウルフガイ』6000枚、『アダルト・ウルフガイ』5000枚、『地球樹の女神』6000枚、原稿用紙に換算してだそうだ。
「幻魔」は「真・幻魔」も含むとのこと。一冊600枚を本一冊として、『幻魔大戦』は30巻になる。現実には合わせると28巻であるが。
角川文庫版20巻、集英社文庫版では10巻、初期ヴァージョンは読んでいる。
当時は○幻(まるげん)(○の中に幻)と言って多少、いやかなり揶揄して言っていた時期もあった。
SFアドベンチャー(SF Adventure) 1979/Spring-1993/Summerは平井和正マガジンの様相を呈し、作品が掲載されていないと売り上げが落ちたそうだ。すでに伝説である。
初期の作品には、そののちの作品の萌芽があるというが、まさにそう思う。
2018年2月25日
「おもしろい」
「おもしろくない」
考え方ひとつで、大きな変化を生み出せるものである。冬季オリンピックを見ると、ずいぶんポジティヴに考えて実行できる日本人が増えてきたんだなと思う。
すごいね、どちらかというと日本人て、総論めいて言ってしまうとまずいかもしれないけど、「おもしろくない」もしくは「失敗しちゃったら」が多いと思う。
「おもしろい」という方向性を持たないと何事もうまくいかないものなんだなと経験値を増やすと納得できてくるものである。
いや、すごい、素晴らしい。
『J・G・バラード短編全集』 The Complete Short Stories J. G. Ballard J・G・バラード(J. G. Ballard)が全五巻で完結した。やはり三巻めがいいと思う。
来月、ラリー・ニーヴン(Larry Niven)の傑作集が出るらしい。
壮大な世界を舞台にしているのだけど、6畳くらいのリビング・ルームで、床にはいっぱい「レゴ」のパーツがある。「レゴ」のパーツがなにやら組みあがっていくのだけど、なんかいびつで不細工、でも魅力にあふれていて、楽しそうに見える。
でも、まだ床には「レゴ」のパーツがいっぱい残っている。これどうするのかなと思っていると、そこで終わりだよ、みたいな作風。
それが素敵。
受賞作中心のようだけど、「無常の月」「太陽系辺境空域」「ホール・マン」なのだが、異星種族を書かせると抜群のオリジナリティを発揮する。それらも収録してね。
2018年2月18日
『SFが読みたい! 2018年版』
あいかわらず和物が読めてない。翻訳ものだけで手いっぱいである。読みたいなあと思うのはあるのだけど、つい後回しにしてしまう。
その翻訳ものだが、一位はクリストファー・プリースト(Christopher Priest)の『隣接界』、二位は『母の記憶に』 ケン・リュウ(Ken Liu)、三位は『エコープラクシア -反響動作』 ピーター・ワッツ(Peter Watts)となっている。
10位内では早川書房6冊、東京創元社が4冊、『無限の書』以外は読んでいるけど、『書架の探偵』 ジーン・ウルフ(Gene Wolfe)は、いまひとつ。
『ジャック・グラス伝 -宇宙的殺人者』 アダム・ロバーツ(Adam Charles Roberts)は、けっこうな掘り出し物。期待してなかったんだけど、おもしろかったです。
『アロウズ・オブ・タイム』 グレッグ・イーガン(Greg Egan)は直交三部作の最終巻、あいかわらず、わたしには訳がわからなかった。悲しい。
『巨神計画』 シルヴァン・ヌーヴェル(Sylvain Neuvel)は、題名の通り、巨大なお手てが見つかる部分は、なんともそそるものがあるのだが、どうもその書体に引っかかるところがあった。
実はケン・リュウかなとも思っていたんですが、プリーストでしたね。
プリースト、未訳の中でも『昏れゆく島へのフーガ』、そして改訳は『伝授者』、読みたいんですけど。
ジョー・ウォルトン(Jo Walton)の『わたしの本当の子どもたち』が評判いいので、やっぱりそうだよねと思っております。実は、個人的には一位と思っておりますが。
今年もいろいろ出てきそうです。国書刊行会には是非ともエールを!今年は寂しそうです。
2018年2月11日
アーシュラ・K・ル=グインが亡くなった。1月22日。1929年だから昭和4年生まれである。
SF作家というよりファンタジー作家と思える。出世作は両性具有のゲセン人との冬の惑星の逃避行を描く『闇の左手』。ジェンダーという概念のない形、この場合、生物学的な性ではなく社会的な性差というべきであろう。
ル=グインの理想的な社会とはなんなのか、掴むのは容易であろうと思えるが、それを具体的にするのはどうすればいいのかが難しい。
『ゲド戦記』ではアイデンティティーの問題をはらんでおり、理想郷を追い求める姿が、より直接的に書かれているように思える。
最高作は何かと言われれば『所有せざる人々』であろうと思われる。ユートピアなのだろうなと思うが、納得できないものも感じられた。
のびやかな表現は中・短編に多い。本質的に短編作家ではないかと思われるところがある。
『世界の誕生日』から二年、ベスト作品集を組んでも充分に売れると思うのだが。
ハイニッシュ、ゲド戦記、賞受賞作、エッセイの4つから選んで傑作集ができる。中でもエッセイ・批評ははずしてほしくないなあ。
また、ひとつ巨星が消えた。哀しい。
2018年2月3日
雪に噴火に流失と、いろいろあった一週間。
先週、芥川賞と直木賞の発表があった。芥川賞作家や直木賞作家というと、それなりに売れたものだが、書籍も雑誌の売り上げも低迷している今、どういう状況なのかなと思える。
作家も二作目、三作目が勝負であり、一作目の焼き直しではいかんとも思う、魅力的なテーマで三作作り上げるのであるならばと思うが、
ジェフリー・アーチャー(Jeffrey Archer)という作家は三作目が勝負とみて、それぞれ違う趣向の作品を書きあげる。確かにそうなのだが、いかにもという感じでやられるとなんだかなと思ってしまう。
芥川賞は200枚前後の作品で、短めである。
中篇なのに、一冊作るのだが、仮に1000円(消費税抜き)としよう。印税は10%、一冊100円。初版5000とすると50万。5000は低いと思うかもしれないが、海外文学の翻訳ものでは3000だという話もある。
1万部印刷されれば100万。10万部で1千万である。道は厳しい。
夢の印税生活などと言える状況でもない。
コンスタントに売れる作品を上梓しないと、生きていくのも大変だ。当然のごとく作品を書くには、ほかの作家の作品も読まなければならないし、資料も必要だ。
インターネットがあるさだって、バカ言ってんでねえ、それこそ信憑性に乏しい。いや、こんなリストサイト作っていて、こんなこというのも本末転倒かもしれんが最終的には自分の眼で見るしかないのである。
某作家は売れるまで年収100万だったという話もある。認められるのは並大抵ではない。
人は年齢を重ねると、どうやら何か言いたいものらしい。今回の芥川賞の方も六十代である。わたしも来月六十代なので、実によくわかるし、何か言いたくなければ、こんなものを書かないだろうと思う。
『創作』という魅力的な単語にひかれ、六十代で芥川賞か、「よし俺も」と思うひとも多いかもしれない。
まずは、『自分史』。
日本の私小説、「ししょうせつ」、もしくは、「わたくししょうせつ」と読む。
現在の日本での小説は明治以降、海外ものの翻訳からスタートし、換骨奪胎された多くの作品から始まっている。そのためか日本独自のものをという熱い情熱が、この私小説という言い方を生み出したのではないかと個人的に思っている。
わたしの教育、もしくは読まされたものでは、あくまでも個人の想いをスタートにし、日々のなにげない描写を積み重ね、なんらかの境地に導くものは私小説と表するように考える。
どうしたって赤裸々に己をさらけ出さざるを得ないのである。
「嫌だ」と思うし、そのためらいの気持ちが『自分史』を間違った方向へ美化していく方向へと誘われるのである。
自分が自分を評価するのは難しい。
そう思うなら、やらない方がいい。
一時期、わたしも『創作』をしていた。SF、ホラー好きなので、その方向の作品である。書いてるなかで、全体の構成のシノプシスを書いてしまうと満足する傾向を発見し、そのあとの練り直しや文章の磨き上げ洗練していく過程を嫌がる自分を発見し、これは無理だなと思った次第。
それと、ひとは体験した以上のことは書けないのかなとも思った。それと決定的なことがある。
と、いうことでこれから『自分史』や『創作』をしようと思う六十代の方へ、必要条件はこれである。
「他人様からのきつい評価を嫌がるようなら、『自分史』や『創作』はするな!!」
2018年1月28日
1、
ジョー・ウォルトン(Jo Walton)の『わたしの本当の子どもたち』を読む。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア記念賞(James Tiptree Jr Memorial Award)を受賞。ジェンダーとは言え、作品の背景にはいっているものごとに対してだろうけど、そこまで考えるよりも、当時はそうであったというべきなのではないかと思う。
作者もそこまで考えてのことではなく、物語としてどうなのかが問題となる。ジョー・ウォルトンの作品はこれで6冊目。安定した作品ばかりで、好感をずっと持っていたけど、今回も良かった。
2、
ケン・グリムウッドの『リプレイ』、人生をやり直したいという願望は誰もが持っているものである。それを直球で書かれた作品である。
どうもタイム・パラドックスやらなんやらのお約束事やパラレル・ワールドやらと物語の整合性に眼を向けがちなところの盲点を狙ったように、願望充足の面だけに焦点を当てた作品で、それがえらくおもしろい。
この分野の代表作になっている。もちろん、最近作でも『ハリー・オーガスト、15回目の人生』 クレア・ノース(Claire North)というこの分野に対する挑戦もある。
しかし、難しい面がある。単にリプレイだけではだめであって、一工夫しなければならない。そこが難しい。
1、
もし、あの時、こうだったらと思うことは多いだろう。人生は挫折の連続でもあるのだし、不幸、幸福の繰り返しでもある。心の持ちようなどと言われるが、それは慰めでしかないのだろう。
悶々とするよりも、割り切ったほうがはるかに楽である。
ふたつの人生がある。あるきっかけにより、ふたつに分かれたある女性の物語だ。そのきっかけなのかは分からないが、ふたつの人生と世界は、少しづつ違っていく。
どちらがいいのかは、わからない。冷静な筆致で進められていく物語だ。
2、
alternate history、歴史改変ものを言う。もし、これがなかったらという前提のもとで構築された世界を舞台にした作品である。
誰それが暗殺されなかったら、どうなるか、例えばジョン・F・ケネディがダラスに行かなかったらというのがアメリカ人好みでもある。これも直球勝負の力技のような作品もあるが、『11/22/63』 スティーヴン・キング(Stephen King)のような、何かずれ込んでいく作品もある。
ひとだけではなく、事故や災害もその歴史変容の原因になる場合も多い。
1、
この作品の肝は、主人公が1926年生まれという点だろう。大正15年、昭和元年(一週間しかないけども)生まれの主人公である。
激動の時代であり、ふたつの大戦と、大きなパラダイム・シフトを経験して生きていく女性の姿が対比されつつ描かれていく。
年齢とともに、変化してく生活環境に否定的でもなく肯定的でもない筆致で淡々と進んでいく。
2、
歴史改変ものの問題はユートピアかディストピアかの命題がある。これがなかったら、これがあったから、という肯定的な表現をしがちである。
小さく振れようが、大きく振れようが、歴史は落ち着くところに落ち着いていくらしい。
ひとつの歴史、ひとつの人生しか経験してないので、よくはわからないが、たぶん、違う世界で経験しても、あまり変わらないのではないかと思える。
たぶん。
3、
生きていくのは大変である。人間はなんて因果な生き物だろうと思う。
ささやかなことに喜びを見出しながら、「もし」というところをかろうじて生き抜いている。
『わたしの本当の子どもたち』には一抹の喜びと寂しさに感じるところがあった。これがSFかと言われると、ちと違うかなとは思うけど、素敵な作品であった。
2018年1月21日
ネットフリックスの『DEVILMAN crybaby』を視る。オリジナルアニメである。全10話、ネットフリックスのアニメの大量発注はあったというニュースが流れていたけれど、どうなのかなと思ってはいた。
『悪魔城ドラキュラ』がなんとも好みに合わなくて、困った。小説のときと、アニメでは脳内環境のスイッチの入り方が違う。ゆったりした流れも小説なら受け入れてしまうのだが、アニメでは「いらっとくる」という悪質極まりない視聴者でもある。
永井豪の『デビルマン』は映像化されるたびに見ているのだが、今回も一抹の不安感はあった。けど、いい方向に裏切ってくれた。
原作は傑作である。ぶっ飛んだ記憶がある。魔王ダンテとどっちを先に読んだのかが不明ではあるが。
劇画調のアニメを期待するとだめ、オープニングの電気グルーヴの曲が耳に残り、アニメもどことなくアメリカンテイストで、ストーリーは比較的原作に忠実、オリジナルな部分もすんなり受け入れられる。
原作は原作でという部分は感じられて、好意的に解釈した。
アニメとして、おもしろい。絵が嫌いと言われるとだめかもしれないが、世界的に受け入れられる要素を多くしたのかなとは思いつつも、日本的なアニメが息づいているようにも思える。
この出来で、次々と出てくるとしたら、怖ろしいものが出来上がる可能性がある。
ネット配信畏るべし。期待しましょう。
瓦礫と化した地球で、たったひとり生き残った男はどう生きるべきか?
アルフレッド・ベスター(Alfred Bester)の『イヴのいないアダム』である。河出書房新社で出た版に二編追加して、創元SF文庫より出た。
表題の「イヴのいないアダム」は「万華鏡」 Kaleidoscope レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)と同じくらいの衝撃を与えてくれた。
最初に読んだのは、『時間と空間の冒険』 Adventures in Time and Space editor:R・J・ヒーリィ(Raymond J. Healy)/J・F・マッコーマス(J. Francis McComas)ででしたが。
このアンソロジー、ほぼ様々な本で読めるようになったけど、傑作アンソロジーとして再刊できないかな。無理なお願いだと思うのだが。
ベスターを改めて読んでみると、やはりアイデアよりもスタイルなんだなと再認識する。
恰好いいと思ったのは過去の話で、うーむ、古くなるのは致し方ないのかもしれないけど。もっとおもしろかったような気がする。
「願い星、叶い星」なんて、かってはいいなあと思ったのだけど、感性がすりきれたか。「地獄は永遠に」あまりおもしろくないのだけど、何か読み逃しているか。
う~む、代表作が一冊にまとまることはうれしいことなのだよ。
河出の奇想コレクション、文庫になっていないのがある。テリー・ビッスン(Terry Bisson)、ゼナ・ヘンダースン(Zenna Henderson)あたりは、いいと思うんだけど。
パトリック・マグラア(Patrick McGrath)は必ずね。
2018年1月7日
「新青年」のデータを集めようとは考えている。もともと戦後の作品だけを対象にしようと考えていた。
戦前のデータは、かなり集めるのに苦労することもあり、とりあえずおいておく。が、それで済むわけもなく、一部の出版社は収録している。
ぼちぼち整理しないとと思っていたのだけど、博文館のデータも、何をどうすればいいのかがさっぱりわからない。
そもそも、その出版社が存在したのか、個人版なのかもわかりにくい。かなりな費用と時間を割かなければ不可能。ということで老後の楽しみとしている。
集英社、中川右介(なかがわ ゆうすけ)『江戸川乱歩と横溝正史』を読む。
江戸川乱歩は旧字体では江戸川亂歩である。このリストでも乱歩でいいのかと疑問は持っていた。戦後、ご本人が乱歩ろ使用しているのでかまわないだろうと思った。
この本でも明記してあり、ほっとする。ある時期からとなると分けなきゃいけないのかと思うと、その手間だけでも、ぞっとする。
乱歩も正史も黎明期の日本の探偵小説を支えたふたりであり、論理的な構築のミステリを得意とする。
一読して、あ、そういうことなんだと随分、勉強になりました。よく調べたなという項目もある。探偵小説というジャンルは、のちに推理小説となる、探偵という枠には収まらないということだろう。
横溝正史は一時期映画化がよくされていて『八つ墓村』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』『獄門島』と、いまの50代から60代は見ているはずである。
乱歩は、もちろん明智小五郎である。わたしにとっては『怪人二十面相』である。最近ポプラ社で復刊されたので、懐かしい絵とともに手を取った方もいると思う。
晩年は紹介に傾注している。
江戸川乱歩アンソロジー、ミステリのおもしろさに改めて目を開かせてくれた『世界短篇傑作集』はすばらしい。
戦前から戦後にかけての動きがわかりやすくて、ここから派生的な調査をすると更におもしろいのではないかと思う。
今日泊亜蘭(きょうどまり あらん)との接点について、個人的にぎくりとした。そうか、あったんだよねと思わされた。
これは『今日泊亜蘭』を読まねばなるまい。作品はひととおり読んでます。
そう思わせる著作である。
ちなみにこの時代を俯瞰するには、『日本探偵小説全集』がよろしいです。全部初版で持ってたんだけど…
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。